『皆殺しの天使』(1962年)監督:ルイス・ブニュエル 出演:シルヴィア・ピナル:第29回
名画プレイバック
何度でも観たくなるが、何度観ても、わからないことはわからないままという不条理劇の大傑作。それがルイス・ブニュエルの『皆殺しの天使』(1962)だ。スペインに生まれ、1920年代からパリのシュールレアリスム運動に加わったブニュエルが1946年にメキシコに渡り、1963年にフランスへ拠点を移す直前に撮られた。(冨永由紀)
ルイス・ブニュエル監督による1960年代の名作、38年後の物語…
ウディ・アレンの『ミッドナイト・イン・パリ』(2011)で、1920年代のパリにタイムスリップしたオーウェン・ウィルソン演じる主人公がブニュエルに「いいアイデアがあるんです」ともちかけるシーンの元ネタはこの作品だ。
ある夜、プロビデンシア(神意)通りに立つ豪邸に住むノビレ卿夫妻が、大勢の友人を連れて帰宅するところから物語は始まる。メイドやコックたちは晩餐の準備に勤しんでいたが、来客と入れ替わりに彼らはなぜか次々と屋敷を去る。なんとか晩餐は終わり、20人ほどの客とノビレ夫妻は食後にサロンに集まる。ピアノを弾いたりして過ごし、そろそろお開きにしようかと言いながら誰も帰ろうとせず、やがて眠りにつく。この時点で実はもうすべてが始まっていたのだ。翌朝になっても、なぜか誰もその部屋から出ることができない。出ようとしても敷居に立つと、あと一歩踏み出すのをためらう。物理的にではなく、心理的なのか見えない力が働いているのか、とにかく彼らはその場に囚われの身となる。
飲食もままならない状況で数日が過ぎていく。着飾った装いも髪もよれよれになり、体調を崩して命を落とす者まで出てくる。壁を壊して水道管から水を飲み、邸内に入り込んできた羊を殺し、家具や楽器を薪にして焼いて食べ……紳士淑女のサバイバル生活の描写は、当初の原案につけられていたタイトル『プロビデンシア通りの破産者たち』にふさわしい。外の世界では、屋敷の不審な状態に警察や野次馬が集まっているが、彼らもまた門扉から中へは、なぜか一歩も入れない。
邸内では疲れ果てた者たちの間で争いが頻発し、ブルジョアたちの澄ました仮面が剥がされる。不信感から起こる身も蓋もない喧嘩のリアルさ、疑心暗鬼が見せる幻覚やヒステリーのシュールさが相まった展開はブニュエルならではの味だ。
本作の特徴は、何度となく行われる反復だ。たとえば冒頭、ノビレ氏が客たちを連れて帰宅して使用人を呼ぶ場面、晩餐の席で乾杯の挨拶をする場面が2度繰り返される。撮影監督のガブリエル・フィゲロアは作品のファイナルカットの試写を見て、その他にも繰り返される反復が編集ミスではないかとブニュエルに指摘したという。もちろん、これはブニュエルの意図的な編集であり、実はこの“反復”という行為は、囚われ人たちが脱出する鍵になるのだ。
意味もわからずその場に囚われては脱出を繰り返す彼らがいるのは、神意と名づけられた場所。そこに説明を見出すことも、何の意味もないと取ることも自由だ。ブニュエルは、ここで描いたのは人間一般ではなくブルジョアの置かれている状況だと後に語っている。
先述の『ミッドナイト・イン・パリ』では、ウィルソン演じる主人公が提案した「晩餐会に来た客がその場所から出られない」というアイデアに、劇中のブニュエルは「どうして部屋から出られないんだ?」「意味がわからない。部屋を出ればいいじゃないか」と言い続けているのがおかしい。『皆殺しの天使』というタイトルは、17世紀スペインの画家フアン・デ・バルデス・レアルの作品から採ったという説、聖書の黙示録に出てくる言葉であり、スペインの教団「一八二八年の使徒団」が用いた名称であるなど、ブニュエル自身が諸説を唱えて煙に巻いている。