『地獄に堕ちた勇者ども』(1969年)監督:ルキノ・ヴィスコンティ 出演:ダーク・ボガード、ヘルムート・バーガー:第33回
名画プレイバック
現在公開中のベルトラン・ボネロ監督『サンローラン』でヘルムート・バーガー演じる老年のイヴ・サンローランが夜、1人でテレビを見ている場面がある。画面に映っているのはルキノ・ヴィスコンティ監督の『地獄に堕ちた勇者ども』(1969)。25歳だったバーガーが華々しくその存在を世界に知らしめた作品であり、女装した彼がマレーネ・ディートリッヒを真似て「Falling In Love Again」を歌う場面が有名だが、その退廃美もさることながら、ヴィスコンティが最も伝えたかったことは別にある。それはナチス時代のヨーロッパの実態だ。(冨永由紀)
大枠は、製鋼業で隆盛を極めるドイツのエッセンベック男爵家で起きた権力をめぐる骨肉の争いの物語。シェイクスピアの「マクベス」やトーマス・マンの「ブッデンブローク家の人々」、ドストエフスキーの「悪霊」などから引用したオリジナル脚本だが、そこに大きく影を落とすのはナチスドイツだ。映画は当主ヨアヒムの誕生日から始まる。時は1933年、台頭するナチスとの協調を選んだ男爵は反ナチを唱える親族・ヘルベルトを経営から外す決断を下し、残った者たちは覇権を勝ち取ろうと策略をめぐらせている。
ヨアヒム直系の孫息子・マルティン(ヘルムート・バーガー)とその母のソフィ(イングリッド・チューリン)、ヨアヒムの甥でナチス突撃隊(SA)幹部のコンスタンティン(ラインハルト・コルデホフ)、重役でソフィの愛人でもあるフリードリッヒ(ダーク・ボガード)、ヨアヒムの姪の娘でヘルベルト(ウンベルト・オルシーニ)の妻・エリザベート(シャーロット・ランプリング)、そして一族の親戚でナチス親衛隊(SS)のアッシェンバッハ(ヘルムート・グリーム)が主要登場人物。金髪で常に冷静沈着なアッシェンバッハは物語の鍵を握る存在だ。
アッシェンバッハは勢力争いや愛情のもつれで感情的になるエッセンベック家の人々に寄り添い、同情を示しながら火に油を注ぐように負の感情を刺激し、利用しては切り捨てていく。手始めに、実質的に経営を任されながらも部外者の立場に甘んじていたフリードリッヒと組み、誕生日の夜(ベルリンで国会議事堂放火事件が起きた日でもある)にヨアヒムを殺害させる。ソフィもアッシェンバッハとともにマクベス夫人のようにフリードリッヒをそそのかし、幼い頃から母の愛情に餓えたまま大人になった放蕩息子のことも「ハムレット」の王妃ガートルードよろしく思い通りに操る。
“ハムレット”であるマルティンは男爵家の後継者ではあるものの、愛人宅の隣室に住む少女に執着する性癖が災いし、自分のみならず母たちまでも窮地に引きずり込む。そこでアッシェンバッハは彼らと敵対するコンスタンティンを「長いナイフの夜」として知られるナチ党によるSA粛清で大勢の隊員もろとも血祭りにあげる。軍部と争うSA所属のコンスタンティンを亡き者にすることは、彼にとって一石二鳥でもあった。
「長いナイフの夜」のシーンは凄惨の極みだ。キャストがヨーロッパ各国から集まったこともあり、劇中大半のセリフは英語なのだが、この場面だけドイツ語になり、保養地で羽を伸ばすSA隊員たちの乱痴気騒ぎが延々と描かれる。白粉を塗り、半裸にガーターベルト姿でフレンチカンカンを踊り狂う美青年たちは夜がふけると、次々に目上の幹部たちと寝室に消えていく。そして、いわばチルアウトタイムの夜明け、化粧が崩れた顔でぼんやり遠くを見ていたガーターベルトにネックレスの美青年が何かを聞きつける。それが敵の急襲だった。その後の殺りく場面では、殺す側の無表情、丸腰で命乞いをしながら撃ち殺される側の無力さに戦慄を禁じ得ない。
貴族のお家騒動がそこだけに留まらず、歴史の大きな流れに呑み込まれ、制御不可能の暴走が始まる予感。その禍々しさが作品全体を支配している。これはアッシェンバッハという悪魔(ナチス)に踊らされる人間の弱さの物語なのだ。特に若く、純粋な心をアッシェンバッハは手玉にとる。マルティンはペドフィリア、近親相姦など、タブーを一身に背負う役柄だが、実体はナイーブな彼はアッシェンバッハによっていとも簡単にナチスへ取り込まれ、その意のままに母と愛人を追いつめていく。ナチス党員となったマルティンはその威を借りたかのように母と対立する強さを身につけ、歪んだ形で彼女への復讐を果たす。
もう1人はコンスタンティンの息子・ギュンター(ルノー・ヴェルレー)だ。パワーゲームの亡者だった父に反発し、反ナチを貫いたヘルベルトを尊敬しつつも、父の命を奪った者への憎しみを募らせる。そんな彼にアッシェンバッハは微笑みながら、ギュンターが父の冷酷さ、フリードリッヒの野心、マルティンの非情さを身につけたと語り、「だが、君にはそれ以上のものがある」と畳みかける。それは「若く純粋で絶対な憎悪」だ。アッシェンバッハはさらに「貴重な怒りのエネルギーを私怨には使うな」と釘を刺し、「その力が最上に生かせる方法を教えよう」と誘いをかける。似たようなことが世界のあちこちで今も起きていそうだ。80年以上も前を舞台にした物語が、まるで今日のことのように感じられる。
映画の前半、ヘルベルトがギュンターに「傍観していた僕たちの罪だ。今ごろ騒いでも遅い。ナチは我々が創ったのだ」と語る言葉は現代への警鐘として重く響く。欲と権力まみれの愛憎劇で良心と希望を象徴していたこの2人もナチスという闇に呑まれていく救いのなさについて、ヴィスコンティは「ナチとはこういうものだった。他の結末は考えられなかった」と語っている。
覇権争いを繰り広げた者たちは全て敗れ去り、死の香りに満ちたソフィとフリードリッヒの婚礼の夜に物語は結末を迎える。ヴィスコンティは「ナチス時代のヨーロッパを今撮ることが重要だと考えたから」と制作の動機を明かした。映画が作られた1969年の時点で「当時のことをよく知らない新しい世代に、大きな影響を与えるはずだ」と語っているのも興味深い。「最も大切なことは、当時の出来事を批判的に受け止め、人々がずっと忘れないことだ」と語っている。それから46年、記憶の継承と合わせて、未来への教訓としての役割も果たす作品だ。