『十二人の怒れる男』(1957年)監督:シドニー・ルメット 出演:ヘンリー・フォンダ 第34回
名画プレイバック
シドニー・ルメット監督の出世作であり、法廷ドラマ、社会派ドラマの傑作にして一流のサスペンス、密室劇の金字塔である『十二人の怒れる男』(1957年)。脚本家のレジナルド・ローズが、自身が陪審員を務めた経験を踏まえて執筆し、1954年にテレビの単発ドラマ枠の1エピソードとして映像化された。さらにテレビ版を自ら脚色した舞台版及び映画版は、現在に至るまで世界各国で繰り返し映像化され上演されている。時代や国境を超えて、本作が人々に支持される理由はどこにあるのか。(今祥枝)
大筋はこうだ。ニューヨークの法廷で、18歳の少年が実父を殺した事件の審理が終わり、12人の陪審員が評決のために陪審室に引き上げてきた。被告の評判は悪く、法廷に提出された証拠や証言は、圧倒的に少年に不利なものばかり。全員一致で有罪になると思われたがただ一人、陪審員8番(ヘンリー・フォンダ)だけが少年の無罪(Not Guilty)を主張。早く帰りたくて仕方がない他の陪審員たちに、合理的な疑問を一つずつ投げかけていく。
この後の展開は、多くのサスペンス作品、法廷ドラマの雛型となっているほどスタンダードだろう。集まっているのは、年齢、人種、職業、生い立ちなど、全く知らない者同士。それぞれに偏見や固定観念があり、その根拠がどこに由来するのかといったキャラクター付けが、8番の疑問提起によって露見していく。扇風機は動かず、暑さにむっとする空気が伝わる陪審室の中で、初めは8番に苛立ちをぶつける人々の気持ちもわからないではない。だが、一人、また一人と「有罪ではない」とする票が増えていく展開は、緻密な心理戦でスリリングだ。脚本がまず素晴らしいのはもちろんだが、ルメットの人の捌き方の巧みさは出世作にして顕著。12人の誰も埋没することなく、それぞれにきっちりと人格を持たせて機能させている点は秀逸だ。
この辺は後の『オリエント急行殺人事件』(1974年)や『ネットワーク』(1976年)などにも通じるだろう。大勢の登場人物の捌き方のテクニックは、監督に転身する以前にテレビ演出家として約500本ものテレビドラマを手掛けた経験が生かされているように思う。また人間をじっくり描きながら、一方でちょっとした間の作り方で、あれ? そっちだったか! といった観客をミスリードする演出も技ありで、ラストは大体想像がつくが、そこに至る過程の面白さ、サスペンスが損なわれることはない。初の劇場映画にして後に生み出す傑作たちを予見させるルメットの堂々たる手腕は、実に素晴らしい。
さて、検察側が提出した証拠、証言の数々はといえば、今ならテレビの刑事ドラマでもまず最初に見破られる、あるいはそれは通用しないだろうというレベルで明らかに職務怠慢である。そもそも「父親を殺す」とわめいていた少年は札付きのワルで、しょっちゅう殴られていたという前提条件から色眼鏡で捜査に当たり、犯人と最初に決めつけたのは陪審員ではなく警察であり検察側なのだ。こうした例が、現在では全くないと言い切れるだろうか? もちろん答えはノーだろう。近年アメリカで多発している、アフリカ系アメリカ人が警察から受ける不当な扱いなどにも通じるところがある。
映画の本質は、まさにこの点にある。時代が変わっても、決してなくなることのない差別や偏見、先入観。そのさまざまなパターンを各陪審員に割り振りながら、最も偏見が少なく、人一人の命がかかっている重さを自覚している人間として8番は配置されている。8番は無罪を信じているという以前に、合理的な疑いがある限り、議論を尽くすことが正しい民主主義だと信じる人間であるが、決してヒーローとして描かれているわけではない。彼自身もまた、「少年は有罪かもしれない」という可能性を自身があまりにも排除し、無罪側に傾き過ぎているのではないかと、7番(ジャック・ウォーデン)の捨て台詞によってハッとする瞬間がある。つまり8番も例外ではなく、この12人は全員が被告だけでなく、お互いに対しても潜在的に何らかの偏った視点を持っているという共通点があるとも言えるだろう。
人間とは、実に矛盾に満ちた生き物なのだ。だから偏見や先入観を持っているからといって、悪人とは限らない。実際に、最初に8番に賛同する9番(ジョセフ・スィーニー)の老人以外にも、最初は無責任で浅はかに見えた人々も議論が進むにつれて、それぞれに人間らしい部分が見えて来る。人は何らかの偏見を持っているし、それがいつ何時でも露呈する可能性がある。そのことを自覚し、常に自問自答を繰り返さなければ、もしかしたら気がつかないうちに偏見や先入観にとらわれ、誤った判断や物の見方をしたり、誰かを傷つけてしまうかもしれない。強い言い方をすれば、絶対に自分に偏見はないと考えることは傲慢だとも思う。だからこそ、観客が最初から最後まで8番に感情移入するかといえば、そうではないのだろう。有罪派の急先鋒の3番(リー・J・コッブ)でさえ、最後の最後は「わかるなあ」と理解を示す人も多いのでは。つまり、この12人の陪審員のキャラクターには誰にもどこかしら共感できる部分があり、ある意味で一人の人間が内包し得る矛盾した要素をそれぞれが代弁し、議論は自問自答の過程ととらえることもできる。あくまでも公平な視点で一つの事件、一人の人間について、真相を判断することは、いかに難しいことであるか。93分ほぼ全編、陪審室で交わされるやりとりが、そのことを切実に伝えている。
本作は、時間を置いて定期的に見直すべき作品だと思う。そうすればより一層、本作の普遍性がわかるはずだ。例えば今回の原稿を書くにあたって、私は5~6年ぶりにこの映画を見返した。毎回面白いと思うのだが、今回引っかかったのは、差別意識が強く、無罪派が優勢になるに従って偏見を隠そうともせず、隣席のユダヤ移民の11番(ジョージ・ヴォスコヴェック)に対しても移民蔑視の暴言を吐く10番(エド・ベグリー)だ。彼のののしりは聞くに堪えないものだが、それを聞いていて思い出したのが、現在アメリカ大統領選の共和党候補者指名争いに名乗りをあげ、暴言で物議を醸しながらも根強い人気を維持している不動産王ドナルド・トランプである。
10番はスラム街の人々を指して、「連中は生まれつきの嘘つきだ。殺人に理由など要らんのだ。(彼らが)大酒を飲んでドブで死んでいたって気にしない。凶暴で殺しなんか気にしない。いいやつもいるが大部分は無能、連中は悪い奴らだ」と偏見三昧。それを聞いた他の陪審員たちは、一人、また一人と静かに立ち上がって彼に背を向ける。これは実に芝居がかった演出ではあるが、非常に重要な意味を持つ。冒頭では多かれ少なかれ、彼らは10番と同じ側にいたのだから。それは同時に、常識で考えたらトランプなどまともに相手にするような人間ではないと思う人が大多数である一方で、移民排斥などの差別的発言、政策を支持する人々が驚くほどにいるという現実を思い出させるものだ。映画では10番は否定されるが、現実的にはどうか。
8番が意見を述べる前の11人の陪審員たちは、基本的には善良な市民だが、一歩間違えば大きな間違いを犯してしまうかもしれない可能性をはらんでいる。同時に、自分を過信しすぎれば8番もまた危険な存在になり得る。演じるオスカー俳優フォンダは、強い意志を持ちながらも控えめな姿勢と思慮深さを体現しており、あるべき“良識人”を体現している。私たちは誰もが、そうした8番の役割を担える存在であるべきなのかもしれない。世の中がどんどんキナくさくなっている今の時代にこそ、本作のメッセージは重要性を増しているように思えてならない。
ちなみに映画や舞台の基になったテレビ版は、3大ネットワークのCBSでライブ放送された(VTRが開発される以前だったため)。演出は、『パットン大戦車軍団』(1970年)でアカデミー賞監督賞を受賞したフランクリン・J・シャフナー。陪審員8番を演じたのは、『ダイヤルMを廻せ!』(1954年)などのロバート・カミングス。エミー賞ではローズが脚本賞、シャフナーが演出監督、カミングスが最優秀男優賞の3部門で受賞し、高評価を得たことが映画化につながった。映画版主演のフォンダはテレビ版に感銘を受け、プロデューサーを兼任したという。
『十二人の怒れる男』は撮影日数約2週間の超低予算映画でありながら、第7回ベルリン国際映画祭金熊賞を受賞。同年度の第30回アカデミー賞では、作品賞、監督賞、脚色賞にノミネートされた。同賞での最大のライバルは、7部門で受賞を果たしたデヴィッド・リーン監督の『戦場にかける橋』(1957)であった。