『チート』(1915年)監督:セシル・B・デミル 主演:早川雪洲 第42回
名画プレイバック
今から100年前、アメリカの女性たちを夢中にさせた映画スターは日本男児だった。巨匠、セシル・B・デミル監督の初期のヒット作『チート』(1915)に主演した早川雪洲は当時29歳。冷酷無比の悪役ながら、ミステリアスなエキゾチズムで女性観客を虜にしたのだ。(冨永由紀)
物語は、株式仲買人を夫に持つ浪費癖のある女性イーディスが投資に失敗し、親しくしていた富豪に泣きついて1万ドルを借りたことから始まる。この富豪を演じたのが雪洲だ。現存するバージョンではビルマの象牙王ハカ・アラカウとなっているが、元々は日本人の骨董商ヒシュル・トリという設定。自宅では紋付の羽織姿で、所有するものすべてに“鳥居”形の焼印を押してほくそ笑む独占欲の強い男だが、外では社交的で物腰も優雅な名士。東海岸の社交界の華であるイーディスに執心していた彼は何かと彼女に便宜を図り、彼女が会計係をしている赤十字舞踏会の会場に自宅を提供する。
イーディスの夫ハーディ氏は仕事の虫で、口を酸っぱくして妻に節約を促すのだが、彼女は友だち付き合いや社交界の立場を優先。挙げ句の果てに預かっていた赤十字の基金を知人に持ちかけられた投資話に流用し、全額失ってしまう。アラカウは彼女の窮地を知るや、言葉巧みに「対価を払うなら助けてあげましょう」と1万ドルの小切手を手渡す。考えなしの行動ですでに痛い目に遭っているのに何も学んでいないヒロインは、ここでも深く考えずに目先の欲に流されてしまう。そして翌日、夫が投資に成功して巨万の富を手にしたと知ると、「ブリッジで借金した」と嘘の言い訳をして小切手を用意してもらい、アラカウ邸に向かう。悪知恵は働くが想像力に欠ける彼女は、アラカウの思惑をまったく理解していなかった。アラカウは「金では片づかない」と言い放ち、関係を迫る。
「自殺する」と泣き落としにかかるイーディスに、冷笑を浮かべて「どうぞ」と拳銃を差し出すアラカウの表情が何とも言えない。女性をもてあそぶ美しい冷血漢……歌舞伎の色悪そのものの男性像が100年前のハリウッド映画に描かれているのだ。イーディスを手籠めにしようと襲いかかり、抵抗する彼女に焼印を押すシーンは100年前の基準からすれば、かなり激しい描写であることは想像に難くない。本作には公開直後に日系人社会から抗議が寄せられ、国辱的だとして日本では公開されなかったが、ここに映し出される暴力のリアルさは観客を惹きつけた反面、猛烈な反発をも呼び起こしたのだろう。必死の抵抗の末にイーディスはアラカウを拳銃で撃って怪我を負わせ、その場から逃げ去る。そして直後に駆けつけた夫が罪を被るのだ。
イーディスを演じたファニー・ウォードも夫役のジャック・ディーンも目を剥いてのけぞる舞台調の大仰な演技だが、それに較べると雪洲は自然な立ち振る舞い。20世紀初頭はアジア系移民の台頭を脅威とする黄禍論が激化していた時代であり、現代とは比較にならないほどの差別もあったはずだが、雪洲の佇まいは卑屈さを微塵も感じさせないどころか、堂々としている。女性に向ける甘い眼差しの奥底に冷たい悪意がほの見える、その視線は今見ても魅力的だ。何とか事を収めたいイーディスが訪ねてきても「あなたに2度も欺かれませんよ(You can not cheat me twice.)」と顔色一つ変えずに言い放つ。そんな悪の華そのもののキャラクターに女性たちの心は鷲掴みにされたのだろう。
構図や編集のリズムで物語と人物像を鮮やかに表現したデミルの演出は見事だ。アラカウ邸のシーンは他の場面と明らかに異なり、闇を多用している。画面の余白(漆黒の闇)を大胆に活かし、光と影のコントラストで禍々しい雰囲気を煽る。ちなみに第一次世界大戦開戦後の1918年に再公開された際は、日本が連合国側だったことから、ヒシュル・トリの設定は日本人の骨董商からビルマの象牙王ハカ・アラカウに変わったが、字幕を差し替えただけなので、障子や日本庭園のある豪邸もそのままだ。その極めておざなりな対処は時代背景を表し、それゆえに劇中に引用される「東は東、西は西、そして両者は決して出会うことはないだろう」というラドヤード・キプリングの詩「東と西のバラード」の一節は重く響く。
終盤、舞台はハーディ氏を裁く法廷になる。当然ながら白人男性ばかり12人の陪審員を前に証言台に立つアラカウもハーディ氏も、真実を語らず偽証する。思いつめた表情の被告と妻、余裕さえ感じさせる原告、詰めかけた傍聴人たちの反応もつぶさにとらえ、緊張が高まっていく。そして有罪判決が下され、取り乱したイーディスは裁判長に真相をぶちまける。「これが私の弁護です」と彼女が片肌脱いで焼印を見せると、廷内は騒然とする。
アラカウの残忍性に酌量の余地はないが、同時にイーディスの浅はかさもしっかり描かれているだけに、彼女が焼印を見せただけで状況がひっくり返り、裁判所で暴動が起きる集団心理の凄まじさに複雑な気持ちにさせられもする。この場面の狂気は音のない映像であることによって増幅され、収拾のつかない混乱の描写からの力業のハッピーエンドには、うっすら恐ろしさすら感じてしまう。
それにしても、この作品で、この役で一躍スターになったとは。雪洲は千葉の裕福な網元の家に生まれ、21歳で単身アメリカに渡った。ロサンゼルスの素人劇団から映画界への足がかりをつかんだ彼の生涯もまた映画のように波瀾万丈だ。『チート』で人気を博した雪洲のギャラは1915年当時で週5,000ドルという破格の待遇。彼の足元に水たまりがあれば、女たちが着ていた毛皮を脱ぎ捨てて彼専用のカーペットができたという逸話もあるほど。第二次世界大戦中はパリで過ごし、戦後、ハンフリー・ボガートからご指名で『東京ジョー』(1949)に出演してハリウッドに返り咲き、『戦場にかける橋』(1957)ではアカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。すべての始まりである『チート』は、早川雪洲というスター誕生の瞬間をとらえている。その強烈な輝きは100年の時を経ても色あせない。