『第七の封印』(1956年)監督:イングマール・ベルイマン 出演:マックス・フォン・シドー 第50回
名画プレイバック
チェスの盤を挟んで向き合う黒装束の死神と十字軍の鎧姿の男。新約聖書のヨハネ黙示録の一節がモチーフとなる『第七の封印』はモノクロの荒涼とした映像でイングマール・ベルイマンが見せる、死を道連れにした異色のロードムービーだ。(文・冨永由紀)
舞台はペストがヨーロッパに蔓延した中世のスウェーデン。十字軍に参加し、10年も異国で戦ってきた騎士アントニウス(マックス・フォン・シドー)は従者ヨンスを伴い、妻が待つはずの故郷を目指している。すでに心身ともに疲弊し、神の存在すら疑い始めた彼の前に現れるのが死神だ。自分を連れていこうとする死神に対して、アントニウスはチェスの対決を持ちかける。勝負がつくまでは死はお預け、もし自分が勝てば死から解放される。死神はその提案に応じ、彼らは旅の合間に勝負を続けながら、アントニウスの故郷へと向かっていく。
旅の途中でアントニウスたちは様々な人間と出会う。赤ん坊の息子を連れた旅芸人の夫婦、盗人になりはてた神学者、疫病を流行らせた魔女として吊るし上げられる女性、疫病で家族を失った少女、神の赦しを求めて十字架を背負い、キリスト像を掲げて自らを鞭打って旅する集団、死の舞踏……中世ヨーロッパの絵画にしばしば登場する題材が次々と映像になって現れる。実際、ベルイマンはストックホルム郊外のテービー教会にあるフレスコ画に描かれた騎士と死神のチェス対戦から本作の着想を得たと言われている。
アントニウスたちは旅芸人の一家と、妻の駆け落ち騒動からよりを戻した鍛冶屋の夫婦、孤児になった少女を連れて旅を続ける。第七の封印とは、ヨハネの黙示録において、神が手にしていた巻物にある最後の封印のこと。子羊が封印を一つ解くごとに地上を禍いが襲い、第七の封印を解くと、天は半時間ほど沈黙に包まれ、7人の天使に七つのラッパが与えられる。このラッパを天使が1人ずつ吹き、第七の天使がラッパを吹くと、最後の審判が始まるのだ。劇中の世界は戦乱、疫病による死の恐怖、魔女狩りと火あぶりの刑といった禍々しいものに満ち、まさに終末を迎えようとしている様相だ。その真っ只中でアントニウスは「神はなぜ沈黙しているのか」と問い続ける。信心深い彼は、人が死んだ後は無になるかもしれないという発想を恐れる。こういう思考は、自らの墓碑に「無」と刻む小津安二郎が生まれた国に暮らす我々のものとは異なる文化だ。
そんな主をどこか冷ややかに見つめながら従うヨンスのシニカルな表情、妻の目には映らない聖母マリアや死神の姿を見ることのできる旅芸人のヨフ、不穏な世界にいながら、生きる歓びに満ちているヨフの妻子など、人物1人1人を丁寧に描写する群像劇でもある。アントニウスが旅芸人の一家と草上で、野いちごとミルクを食べるシーンがある。ささやかな幸せを満喫する彼らを見たアントニウスは観念的な内面世界から少しだけ解放され、この家族を死から守ることを使命と感じ、彼らと道を分かつ。
アントニウスを演じたマックス・フォン・シドーは87歳の今も『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』(2015)や海外ドラマ「ゲーム・オブ・スローンズ」などに出演し、現役で活躍する名優。本作では20代にして、死に取り憑かれた戦士の苦悩を重厚に演じている。スウェーデンの演出家兼俳優のベント・エーケロートが演じた死神の黒装束に白塗りというインパクト大なヴィジュアルは、後に『(500)日のサマー』(2009)や『ビルとテッドの地獄旅行』(1991)など数多くの作品でパロディー化され、後者ではビルとテッドが海戦ゲームやツイスターで死神と対戦する大爆笑のシーンがある。実は本家の『第七の封印』でも、死神はなかなかのユーモアセンスの持ち主で、ブラックな笑いを誘いながら、人の命を奪っていく。
自明のことだが、この世で死から逃れられる者は誰もいない。城に戻り、妻と再会したアントニウスと一行の前に死神が現れる。妻が「子羊が第七の封印を解いた時……」とヨハネの黙示録を朗読している時だ。死神との邂逅で、それまでひと言も発しなかった少女が放つ台詞が胸を打つ。彼女が待ち望んでいたものを指し示すその言葉と晴れやかにさえ見える表情は深い。
ラストシーンは、死神を先頭に、手をつないで丘を進むアントニウスたちの死の舞踏だ。かなりのロングショットだが、実は撮影時にはキャストの多くがクランクアップしていて、スタッフや居合わせた旅行者に衣裳を着せて撮影したという。影絵のような人物たちと空と大地だけ。それがしっかりと、黄泉へと通じる路に見える。映画の魔法に満ちたシーンだ。
キリスト教の素養がないと難解な作品だと思われがちだが、ベルイマンは「遠征から帰還した十字軍戦士のアントニウスは大戦から戻った兵士であり、中世の人々は疫病を恐れ、現代人は原子爆弾を恐れる」として、本作について、中世を舞台に現代を描いた寓話的作品だと語っている。冷戦時代だった1950年代後半の製作当時から60年近く経つ今も、そのメッセージは古びることはない。