児童虐待や育児放棄が題材の映画を考える
コラム
親がわが子を死に追いやる--あり得ないはずの事件が現実に次々と起きている。「もうおねがい ゆるして ゆるしてください」つい先日も十分な食事を与えられずにやせ細って亡くなった5歳の少女がノートに残した両親への悲しい言葉が多くの人の胸を突いた。
今年のカンヌ国際映画祭で映画『万引き家族』が最高賞パルムドールを受賞して話題を呼んだ是枝裕和監督が、さかのぼって2004年に撮った映画『誰も知らない』の題材は育児放棄(ネグレクト)。父親の蒸発後、シングルマザーとして子どもたちを育てていた母親がいくらかの現金を残して姿を消す。アパートの一室に残された12歳の長男と弟妹の4人の子どもたちはどんな生活をしていたのか? そもそもなぜそんなことが起きたのだろうか?
『誰も知らない』以外でもネグレクトをテーマにした映画は濃厚な余韻を残す。そして当事者である子ども以外、誰もその真相を知ることができない。映画はフィクションというフィルターを通し、そこで「本当に起きていたかもしれないこと」を映し出し、観客の心をザワつかせる。(文:浅見祥子)
身勝手な親の犠牲となる子どもたち
「この映画は、東京で実際に起きた事件をモチーフにしています。しかし物語の細部や登場人物の心理描写などはすべてフィクションです」--『誰も知らない』は、そんな言葉から始まる。基になったのは1988年に起きた「巣鴨子ども置き去り事件」。公開当時、これが現代の日本で起こった実話なのか!? と驚いたことを思い出す。
母親を演じるのは、あの独特なアニメ声が年齢不詳感を加速するYOU。まずはこの配役にうなる。「学校へ行きたい」というごくまっとうな訴えをする子どもに「え~学校なんか行ったらイジメられるよ。いーよー、行かなくて」とか言っちゃうような、自分の都合で子どもたちを置いて姿を消してしまう、世間一般の常識からは大きくズレた身勝手な母親。でもYOUが演じるとどこかかわいらしく、憎めないキャラになるから不思議だ。
それでいて劇中の母親と子どもたちが過ごすわずかな時間、子どもたちの“ママがいてくれると本当にうれしい”、そんな表情にくぎ付けになる。長男の明を演じた柳楽優弥は、この映画でいきなりカンヌ国際映画祭で最優秀男優賞を受賞した。それはもちろん是枝監督の演出があったからこそだろうが、計算が100%透けて見えない自然さと時折見せる輝く笑顔、黙っていても秘めた思いが伝わる眼差しは、まるで熟練の俳優が理想とするような演技で素直に胸を打たれる。
子どもたちの父親はそれぞれ異なり、男ができるたびに母親は子どもの前から姿を消す。久しぶりの帰宅で楽しい家族団らんを過ごした後、またすぐいなくなると言い出す母に「お母さん、勝手なんだよ」と珍しくなじる明。「勝手なのはあんたのお父さんなんじゃない。わたしは幸せになっちゃいけないの!?」と返す、この母親の心理に共感するのは難しい。その“幸せ”のために子どもが犠牲になることに対して、なぜ完全に思考が停止するのか? そもそも親から受ける愛情というものを、誰からも教えてもらえなかったってこと? そこのところの事情は説明されない。また子ども全員が出生届未提出の「無戸籍児」だったため、児童相談所などが彼らの存在に気づくこともないという背景などもあるのだろうか。
都市の集合住宅で、隣に誰が住んでいるかも知らない状況はごくありふれている。子どもだけで暮らしていてガスも電気も水道も止められ、部屋は不潔で目を覆う状況になっても、同じ建物に住む大家さえ気づかない。異様に思える、けれどごく普通。それでいてネグレクトの状態にある子どもにとって唯一、社会との接点になるのがコンビニというのもイマドキなのだろう。映画の中では、どれだけ悲惨な状況でも子どもらしいキラキラした時間が描かれ、だからこそそれを俯瞰(ふかん)する観客の心は切ない思いでいっぱいになってしまう。
育児放棄に至る母親の心理
緒方貴臣監督作『子宮に沈める』(2013)のネグレクトはもっと深刻だ。これも2010年の「大阪2児放置死事件」という実際に起きた事件を基にしていて、ここで犠牲になったのは3歳の少女とまだ1歳9か月の男の子だった。
映画では固定されたカメラで長回しによって撮影されたシーンが続き、カメラは家から一歩も出ない。大人の表情は画角から外れていることも多くて心情を読み取れず、ただ彼らの生活をのぞき見するように映画は進んでいく。キレイに掃除された部屋、手の込んだ料理と、アパートの一室で母親の孤独な奮闘は続く。そしてすさんでいく様としてテレビは壊れて映らず、3人だけがぽつんと世界から取り残されたように見える。
夫とのすれ違いやケバい女友達の来訪もあるがいずれの大人も存在感は希薄で、それらのエピソードが観客の心に響くことはない。肝心の母親の心情さえよくわからない。やがて母親は去り、2人の小さな子どもだけになる。そこからは部屋に閉じ込められた2人の息遣いにまで耳を澄ませることになる。でもまだ3歳と1歳、その瞳に映る現実を捉える力はあまりに未成熟で、それが余計に辛い。
少女は食べ物がなくなるとゴミ袋をあさり、マヨネーズをラッパ飲み(!)し、床にこぼれた粉ミルクを手ですくって哺乳瓶に入れ、水で溶かして弟に与える。パイナップルの缶詰を見つけるも開け方がわからず、包丁をつき立てる様子にハラハラしっぱなし。そうして映画を観終えた後は暗澹(あんたん)とした気持ちになるが、現実の事件の結末は映画のそれよりずっと悲惨だ。
家族とは?
いずれの作品も現実に起きた事件を基にしているが、事実をそのまま再現しようと試みているわけではない。先に挙げた『万引き家族』もまた年金の不正受給という事件に触発されていて、是枝監督は「他人から見たら嘘でしかない、『死んだと思いたくなかった』という家族の言い訳を聞き、その言葉の背景を想像してみたくなりました」と語っている。
物語として緻密に構築されたその“想像”は、作り物でしか到達しえない何かにたどり着こうとする。ありふれて見えるある家族の、それぞれが抱える事情がやがて明らかになり、それでやっぱり家族って何なのか? 血のつながりか、相手を思う気持ちの強さか? それとも一緒に過ごした時間? などと観る者に問いかける。
この映画でカギとなるのは、リリー・フランキー演じる父親が息子とコロッケを買いに行った帰りにふと拾ってきてしまう少女だ。「ゆり」と名乗るこの少女は真冬の夜の団地で部屋から薄着のまま締め出され、ベランダでうずくまって震えていた、ネグレクトの犠牲者である。
親としての資格があるのか!?
子どもを育てる資格があると思えない親を描いた映画はほかにもある。生まれたばかりの赤ん坊をお金ほしさに売り払ってしまうダメ男を描く『ある子供』(2005)、ロックミュージシャンである母と海外を飛び回る美術商の父、身勝手な両親に振り回される6歳の少女の選択を描く『メイジーの瞳』(2012)。
一方でケン・ローチ監督の『レディバード・レディバード』(1994)は、社会福祉局から母親不適格の烙印(らくいん)を押されて子どもを取り上げられた母親の、子どもを取り戻そうとする戦いのドラマ。これも実話が基なのだが、怒りの対象は不条理な社会制度に対してだったりして、『誰も知らない』や『子宮に沈める』に触れた後だと、そこに怒りを覚えること自体が健全に思えてしまう。
結局、子育てに関しては実際に産んで育ててみないと精神的・肉体的にどれほど疲弊するかは実感出来ない。ましてやネグレクトなんて! 想像したくもない……というのが多くの人の心情に近い気がする。でも実話に触発されてフィクションとして描かれた物語は、客観的事実を超えた何かに到達する。そんな物語に触れたとき、ふと身の回りを見回し、これまで目に入らなかったことに無関心ではいられなくなるだろう。それこそ、フィクションがこの過酷な現実を超えた瞬間なのかもしれない。