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津波もガレキの映像も一切登場しない震災ドキュメンタリー『なみのおと』が注目

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日本映画界の新鋭として今後が期待されている(左)濱口竜介、(右)酒井耕
日本映画界の新鋭として今後が期待されている(左)濱口竜介、(右)酒井耕 - Photo:Harumi Nakayama

 このほど行われた山形国際ドキュメンタリー映画祭では今年、東日本大震災復興支援上映プロジェクト「Cinema with Us ともにある」と題した震災関連映画29作品が上映された。その中で、津波もガレキの映像も一切登場しないドキュメンタリー『なみのおと』が注目を浴びた。

 同作品は津波被害を受けた三陸沿岸部に暮らす人たちに、室内で、震災発生当時のことを中心に語ってもらった“口承記録“だ。1933年(昭和8年)の三陸大津波と二度も大津波を体験した姉妹、救援活動にあたった気仙沼の青年団、津波に家ごと呑み込まれながらも助かった夫婦など5組などが当時の状況を克明に再現し、時に涙ながらに心情を打ち明けていく。手がけたのは、東京藝術大学大学院映像研究科監督領域の同期で、日本映画界の新鋭として今後が期待されている濱口竜介と酒井耕。酒井は「カメラを回しながらお話を伺っていたら、頭の中に映像が浮かんで来た。われわれの中にはあの時の映像が鮮明に残っているので、話を伺っていくうちに記憶から引き出されていく。コレだ! と思いました」とアイデアが浮かんだ瞬間を説明した。

 本作は、文化施設・仙台メディアテークが行なっている、復旧・復興のプロセスを未来の財産にするためのプロジェクト「3がつ11にちをわすれないためにセンター」の呼びかけがきっかけとなって誕生した。濱口は神奈川、酒井は長野出身と東北にゆかりはない。そこで濱口は5月に現地入りするや、ボランティア活動をしながら何を記録すべきか頭を悩ませたという。同時に、被災地では車を持っていないと移動が困難な事から、車を持っている酒井を誘った。二人が本格的に製作を始めたのは7月に入ってから。多くのドキュメンタリストがすでにカメラ片手に被災地を精力的に回っていた中で、二人の始動は遅く、ガレキが片付き始めた街もあった。逆にそれが、津波で破壊された街よりも、そこで今、生きている人たちへと二人の関心を向ける結果となった。

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 酒井は「三陸地方沿岸部では三陸大津波の後で1960年にチリ地震津波もあり、30年~50年のサイクルで津波被害に遭っていることになります。それでもココに住み続けるのはなぜなのか? そこを離れないのというのは、個人の意思だけではない何かがあるのではないか? と思ったんです」。濱口も「過去に起こったことも伺いたかったし、これからどう生きていくのかも伺いたかった。でももしそれを被災した場所で話を伺ったら、インタビューを受ける方も観ている人も関心がそっちにいってしまう。われわれが聞きたいことが聞けないと思ったんです」と製作意図を語る。
 出演者は新聞記事で得た情報や、地元のボランティアセンターの紹介を受けて交渉した。

 積極的に自分の体験を伝えて行きたいという思いが強い人もいる一方で、口の重い人もいた。それでもインタビューアー役も務めた二人が質問を投げかけていると、ふとその場の空気が変わる瞬間があったのだという。濱口は「カメラの前で話すという“覚悟“が見えるようになるんです。それ以降はカメラの存在が消えるのか、皆さん、カメラを意識しなくなるんですよね」と撮影を振り返った。二人はすでに約20人のインタビューを記録し、映画版とは別に、随時「3がつ11にちをわすれないためにセンター」のHP(http://recorder311.smt.jp/)でアップしている。

 当初抱いていた「なぜココに住むのか?」という疑問に対して明確な答えはまだ見つかっていないが、東北地方の魅力は心身で感じているようだ。2人とも被災地を回り始めてから体重が増量した。濱口は「訪問すると東北の皆さんはいろいろおもてなしをしてくださるものですから……」と照れ臭そうに笑う。2人は、約1年間は仙台を拠点に被災地を回って活動を続けていく予定だという。(取材・文:中山治美)

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