実在の人物を描くことに歴史的事実は必要か?映画に自由を求めた『FOUJITA』
日本人に生まれながらも、フランス人として亡くなった画家・藤田嗣治。彼を題材にした『FOUJITA』を製作した小栗康平監督は「映画に必要なことは、今の感情とどのように引きつけ合うかということであって、歴史的な解説や流布しているエピソードをなぞるということではない。自由でいいと思います」と話す。
本作は実在の人物を基にした一般的な伝記映画と一線を画している。1886年に東京で生まれた藤田は1913年にパリに渡り、第1次世界大戦を経て、乳白色の肌と呼ばれた裸婦像で脚光を浴びた。エコール・ド・パリの寵児ともてはやされ、第2次世界大戦でのパリ陥落を前に日本に戻り、戦時中には数多くの戦争画を手掛けた。戦後、そのことで戦争責任を問われて再び渡仏。フランス国籍を取得し、生涯日本に帰ることはなかった。私生活でも5度の結婚を経験するという波乱万丈な人生を送った藤田。しかし『FOUJITA』はドラマチックに彼の人生を描く作品かといえば、そうではない。かといって、記録的に説明している作品でもない。まったく異なる二つの時代と二つの社会、文化が、圧倒的な映像でただ併置されている。
「普通に考えると、どうしてあの藤田? と思われるかもしれないですね」。昨年12月『FOUJITA』の撮影現場で小栗監督は語った。「藤田の生涯はふり幅の大きい矛盾に満ちたものだったが、彼は『油絵という西洋由来の表現をなんとしてでも自分のものにしたい』という意志だけは一貫して強く持っていた。1920年代~1930年代のフランスと戦時の日本ではあまりにも多くのことが違い過ぎた。またその落差から今の日本が見える」と考え、構想を練っていったという。その日は、オダギリジョーが演じる藤田と、中谷美紀ふんする君代夫人が二人で美術館の中を歩くシーンが撮影されていたが、組まれたセットは黒の壁が立ち並ぶ演劇の舞台のようなもの。人物の日常を映す伝記作品では観られないような非日常的な空間が広がる中、小栗監督は、一つの画(え)としてどこまで美しくできるかを追求し、丁寧に光源の角度を確認していた。
「歴史的な事実に結び付けてしまうと、あったこととして、どうしても物語や言葉にしばられてしまいます。でもその時の感情はどうだったかは、何も伝えられていないのです。どのような感情を抱いていたという本当のことは残されていない」。小栗監督は目を細めながら「その時々の感情というものは、100年前であろうが、現在であろうが、自分たちで想像することで『表現』になる」と続ける。
日本画的な手法を使った藤田のフランスでの成功。東洋の理想を求める戦争協力画をドラクロワのような西洋歴史画で描いたというねじれ。それは今のわたしたちがそのまま抱えている「ひずみ」なのかもしれない。小栗監督は「今」を見つめ直すテーマとして、藤田の生きざまを切り取っている。(編集部・井本早紀)
映画『FOUJITA』は全国公開中