宮崎駿だけじゃない!名作ジブリアニメとは
コラム
先ごろ、日本テレビの金曜ロードショー枠に登場した『魔女の宅急便』(1989)が、13回目のテレビ放送にもかかわらず視聴率12.5%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)を記録した。毎回2ケタ視聴率を稼ぐスタジオジブリ作品だが、それは宮崎駿監督映画のイメージが強い。だがジブリの映画には宮崎作品以外にも、魅力的なものが揃っている。(文:金澤誠)
スタジオジブリは元々、宮崎監督とその盟友・高畑勲監督の映画を作るために設立されたアニメスタジオだった。その高畑監督はジブリで『火垂るの墓』(1988)、『おもひでぽろぽろ』(1991)、『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994)、『ホーホケキョ となりの山田くん』(1999)、『かぐや姫の物語』(2013)と5作品を作っている。高畑作品の特徴は、表現としてのリアルさを追求していることだろう。宮崎監督が魔女や豚を主人公にしながら背景や風俗、文化を詳細に描いて、架空の世界にリアリティーを持たせるのに対し、高畑監督はもっと身近で日常的なリアルを、アニメーションで表現してきた。
例えば『おもひでぽろぽろ』は、東京に住む27歳のOL・タエ子が山形県へ旅行に向かい、都会暮らしで田舎が無かった10歳の少女時代を思い出し、さらに自然と触れ合いながら自分を見つめ直していく物語。結婚か仕事かで揺れる年齢に差し掛かったタエ子が、夜に自分の部屋に帰って化粧を落とすときにどこか覚える都会生活の虚しさ、山形で紅花を摘む作業を手伝ううちに生き生きとしてくる表情など、タエ子をアニメーションのキャラクターというよりも、一人の人間として捉えた繊細な演出が見事。実作業をリサーチして完璧に再現された紅花摘みの場面にも、高畑監督の本物志向のこだわりが見て取れる。
また『火垂るの墓』は、毎年終戦記念日の近辺に放送される反戦アニメーションの名作。空襲で母親を亡くした14歳の清太と4歳の節子の兄妹が、誰にも頼らず貯水池わきの防空壕で暮らし、やがて節子は衰弱死して、清太も力尽きて死んでいく。かつて母親に守られていた彼らの生活を奪った戦争の悲劇が、節子のあどけないかわいさによって逆に胸に迫ってくる作品だが、高畑監督が込めた想いはそれだけではない。清太は、最低限の面倒を見てくれる親戚の家を出て、自ら節子と二人で生きることを選ぶ。社会的な人の繋がりをわずらわしいと感じてその関係を絶って自分たちだけで生きられると思う清太に、高畑監督は対人関係を嫌がって、自分の価値観を押し通そうとする現代の若者の姿を重ね合わせている。テーマの上でも、今の日本の現状と繋がるものを常に作品に刷り込んでいるのである。
宮崎、高畑作品に欠かせない名アニメーターから監督になったのが、『耳をすませば』(1995)の近藤喜文と、『借りぐらしのアリエッティ』(2010)や『思い出のマーニー』(2014)の米林宏昌だ。『耳をすませば』は読書好きな中学3年生の雫が、バイオリン職人になることを夢見る同級生・聖司に恋をする青春映画。将来何をしたいか決まらない雫が、自分の進む道を決めている聖司に憧れ、それが恋に変わっていく。面白いのはこの絵コンテを、プロデュースや脚本も手掛けた宮崎駿が担当していることで、彼の描いた絵コンテでは、雫は元気で活発な宮崎作品のヒロイン像が強く押し出されていた。それを近藤監督はもっと少女としてのためらいや迷いを表現して、独自の雫に作り替えた。
二人の合作とも言えるそのキャラクターは、ジブリ作品の中でも異色の魅力を持っている。『借りぐらしのアリエッティ』でも宮崎駿監督は企画と脚本を担当した。ただその絵の表現に関しては、米林監督ならではのディテールの細やかさに溢れていて、身長10cmの少女アリエッティが緑豊かな人間の家の庭を、ジャングルをかき分けるかのように歩き回る様は、ファンタジー映画の醍醐味を味わえる素晴らしさ。アリエッティは人間の少年・翔と触れ合うようになるが、一緒には暮らせない二人の関係性を、米林監督は甘酸っぱくも切なく描いている。
『ゲド戦記』(2006)や『コクリコ坂から』(2011)の宮崎吾朗監督は、宮崎駿監督の子息。それまでアニメーション映画製作の経験はなく、いきなり『ゲド戦記』で監督デビューを飾った。この作品では文明が行きつくところまで行って、人間が大事なものを失くしている時代を背景に、王子アレンと大賢人ゲドの旅を描いた。吾朗監督が目指したのは見えない不確かなものに振り回されるのではなく、見て触れ合うことができる大事なものを求める登場人物たちの「心の旅」。内面世界に重点を置いているのが父・宮崎駿と違うところだ。
他にも『猫の恩返し』(2002)、『レッドタートル ある島の物語』(2016)などの長編がジブリから生まれているが、面白いのはオリジナル作品を除くと少女コミックや女性作家の小説を原作にしているものが多いことだ。女性の感性で書かれた原作を、男性監督が読み解く。そこにジブリ映画が性別を超えて親しまれる、秘密の一端があるのかもしれない。