宮崎駿、盟友・高畑勲さんに涙の言葉<開会の辞 全文>
映画監督の宮崎駿が15日、4月5日に肺がんのため82歳で亡くなったアニメーション監督・高畑勲さんの「お別れの会」で、涙ながらに「開会の辞」を読み上げ、盟友との別れを惜しんだ。「お別れの会」には、高畑さんと生前親交のあった映画監督や俳優、アニメーターなどの関係者、約1,200人が参会した。
「ジブリとして盛大なお別れの会で見送りたい」。15日に行われた「お別れの会」は、宮崎監督と鈴木敏夫プロデューサーのそんな思いから、高畑さんが何度も足を運んでいたという三鷹の森ジブリ美術館が選ばれた。会場の祭壇には、高畑さんが優しい笑顔を浮かべた遺影が掲げられ、その周りには約2,000本の野の花が飾られた。温かみのある草花で高畑さんを包み込みたいという宮崎監督の案だった。
会の委員長を務めた宮崎監督は「開会の辞」で、高畑さんとの55年前の出会いから、高畑さんの初監督作品『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968)をともに製作した青春の日々を、文章にしたため朗読。「パクさん、僕らは精一杯、あの時、生きたんだ。膝を折らなかったパクさんの姿勢は、僕らのものだったんだ。ありがとう、パクさん。55年前に、あの雨上がりのバス停で声をかけてくれたパクさんのことを忘れない」と涙で声を震わせた。
さらに高畑さんとゆかりの深いアニメーターの大塚康生、ジブリ作品で多くの音楽を手掛けた久石譲がお別れの言葉を述べ、『かぐや姫の物語』で主題歌を担当した二階堂和美が、お別れの歌を高畑さんに送った。(取材・文/岸田智)
宮崎駿監督「開会の辞」全文は以下の通り。
(高畑さんの)パクさんというあだ名の謂れはですね、定かでない部分もあるんですが、大体ものすごく朝が苦手な男でして、東映動画に勤め始めたときも、ギリギリに駆け込むというのが毎日でございまして、買ってきたパンをタイムカードを押してから、パクパクと食べて、水道の蛇口からそのまま水を飲んでいたという、それで「パク」が「パク」になったという噂です。追悼文という形ではありませんが、書いてきましたものを読ませていただきます。
パクさんは、95歳まで生きると思い込んでいた。そのパクさんが亡くなってしまった。自分にもあんまり時間がないんだなあと思う。9年前、私たちの主治医から電話が入った。「友達なら、高畑監督のタバコをやめさせなさい」と真剣な怖い声だった。主治医の迫力に恐れをなして、僕と鈴木さんは(鈴木さんというのはプロデューサーです)、パクさんとテーブルを挟んで向かい合った。姿勢を正して話すなんて、初めてのことだった。
「パクさん、タバコをやめてください」と僕。「仕事をするためにやめてください」これは鈴木さん。弁解やら反論が、怒濤のように吹き出てくると思っていたのに、「ありがとうございます。やめます」 パクさんはキッパリ言って、頭を下げた。そして本当にパクさんは、タバコをやめてしまった。僕は、わざとパクさんのそばへ、タバコを吸いに行った。「いい匂いだと思うよ。でも全然吸いたくなくなった」とパクさん。彼の方が役者が上だったのであった。やっぱり95歳まで生きる人だなあと、僕は本当に思いました。
1963年、パクさんが27歳、僕が22歳の時、僕らは初めて出会いました。その初めて言葉を交わした日のことを、今でもよく覚えています。黄昏時のバス停で、僕は練馬行きのバスを待っていた。雨上がりの水たまりの残る通りを、一人の青年が近づいてきた。「瀬川拓男さんのところに行くそうですね」 穏やかで賢そうな青年の顔が目の前にあった。それが高畑勲ことパクさんに出会った瞬間だった。55年前のことなのに、なんてはっきり覚えているのだろう。あの時のパクさんの顔を、今もありありと思い出せる。瀬川拓男氏は、人形劇団太郎座の主催者で、職場での公演を依頼する役目を、僕は負わされていたのだった。
次にパクさんに出会ったのは、東映動画労働組合の役員に押し出されてしまった時だった。パクさんは副委員長、僕は書記長にされてしまっていた。緊張で吐き気に苦しむような日々が始まった。それでも、組合事務所のプレハブ小屋に泊り込んで、僕はパクさんと夢中で語り明かした、ありとあらゆることを。中でも、作品について。僕らは仕事に満足していなかった。もっと遠くへ、もっと深く、誇りを持てる仕事をしたかった。何を作ればいいのか(泣き声で『すいません』)、どうやって。パクさんの教養は圧倒的だった。僕は得難い人に巡り会えたのだと、うれしかった。
その頃、僕は大塚康生さんの班にいる新人だった。大塚さんに出会えたのは、パクさんと出会えたのと同じくらいの幸運だった。アニメーションの動かす面白さを教えてくれたのは、大塚さんだった。ある日、大塚さんが見慣れない書類を僕に見せてくれた。こっそりです。(ちょっと、すいません)それは、大塚康生が長編映画の作画監督をするについては、演出は高畑勲でなければならないという、会社への申入書だった。
当時、東映動画では、監督と呼ばず演出と呼んでいました。パクさんと大塚さんが組む。光が差し込んできたような高揚感が、湧き上がってきました。そして、その日が来た。長編漫画第10作目が、大塚・高畑コンビに決定されたのだった。
ある晩、大塚さんの家に呼ばれた。スタジオ近くの借家の一室に、パクさんも来ていた。ちゃぶ台に大塚さんはきちんと座っていた。パクさんは組座し、事務所と同じようにすぐ畳に寝転んだ。なんと僕も寝転んでいた。奥さんがお茶を運んでくれた時、僕は慌てて起きたが、パクさんはそのまま「どうも」と会釈した。女性のスタッフにパクさんの人気が今ひとつなのは、この無作法のせいだったが、本人によると、股関節がずれていて、だるいのだそうだった。
大塚さんは語った。「こんな長編映画の機会は、なかなか来ないだろう。困難は多いだろうし、制作期間がのびて、問題になることが予想されるが、覚悟して思い切ってやろう」 それは意志統一というより、反乱の宣言みたいな秘密の談合だった。もとより僕に異存はなかった。何しろ僕は、原画にもなっていない、新米と言えるアニメーターにすぎなかったのだ。大塚さんとパクさんは、ことの重大さがもっとよくわかっていたのだと思う。
勢いよく突入したが、長編10作の制作は難航した。スタッフは新しい方向に不器用だった。仕事は遅れに遅れ、会社全体を巻き込む事件になっていった。パクさんの粘りは超人的だった。会社の偉い人たちに泣きつかれ、脅されながらも、大塚さんもよく踏ん張っていた。僕は夏のエアコンの止まった休日に一人出て、大きな紙を相手に背景原図を描いたりした。会社と組合との協定で、休日出勤は許されていなくても、構っていられなかった。タイムカードを押さなければいい。僕はこの作品で、仕事を覚えたのだった(涙声)。
初号を見終えた時、僕は動けなかった。感動ではなく、驚愕に叩きのめされていた。会社の圧力で、迷いの森のシーンは「削れ」「削らない」の騒ぎになっているのを知っていた。パクさんは、粘り強く会社側と交渉して、ついにカット数から、カットごとの作画枚数まで約束し、必要制作日数まで約束せざるを得なくなっていた。当然のごとく、約束ははみ出し、その度にパクさんは始末書を書いた。一体パクさんは、何枚の始末書を書いたんだろう? 僕も手いっぱいの仕事を抱えて、パクさんの苦闘に寄り添う暇はなかった。大塚さんも、会社側の脅しや泣き落としに耐えて、目の前のカップの山を崩すのが、精一杯だった。
初号で僕は、初めて迷いの森のヒロイン、ヒルダのシーンを見た。作画は大先輩の森康二さんだった。何という圧倒的な表現だったろう。何という強い絵。何という優しさだったろう。これをパクさんは表現したかったのだと、初めてわかった。パクさんは、仕事を成し遂げていた。(原画の)森康二さんも、かつてない仕事を仕遂げていた。大塚さんと僕は、それを支えたのだった。
『太陽の王子』(『太陽の王子 ホルスの大冒険』、高畑さんの初監督作品)公開から、30年以上経った西暦2000年に、パクさんの発案で『太陽の王子』関係者の集まりが行われた。当時の会社の責任者、重役たち、会社と現場との板挟みに苦しんだ中間管理職の人々、制作進行、作画スタッフ、背景、トレース彩色の女性たち、美術家、撮影、録音、編集の各スタッフがたくさん集まってくれた。もう今はないゼロックスの職場の懐かしい人々の顔も混じっていた。
偉い人たちが「あの頃は一番面白かったなあ」と言ってくれた。「太陽の王子」の興行は振るわなかったが、もう誰もそんなことを気にしていなかった。
パクさん、僕らは精一杯、あの時、生きたんだ。膝を折らなかったパクさんの姿勢は、僕らのものだったんだ。ありがとう、パクさん。55年前に、あの雨上がりのバス停で、声をかけてくれたパクさんのことを忘れない(涙声で、どうもすいません)。