若松孝二監督追悼座談会 若松イズムの継承者たちが語る 僕たちが学んだこと。明日の日本映画界のために実践すべきこと。
圧倒的な存在感と行動力で、古き慣習の残る日本映画界を切り開いてきた若松孝二監督が2012年10月に急逝されました。しかし、巨頭死しても魂は死なず! 映画を志す若き人たちと積極的に交流を持ってきた若松監督には多くの「若松学校」卒業生がおり、新たな道を作るべく奮闘しています。彼らは若松監督から何を学び、受け継いでいこうとしているのか。俳優、元助監督など側近5人が若松監督の足跡と破天荒エピソードを振り返りながら、自分たちができることについて大いに語り合いました。(取材・文:中山治美)
1.若松孝二監督との出会い、その衝撃
――それぞれの若松監督との出会いを教えてください。
井上淳一(以下、井上) 高校のときに若松監督の『水のないプール』(1982)を観て衝撃を受け、さらに若松さんの著書「若松孝二・俺は手を汚す」(ダゲレオ出版)を読んで、田舎の映画青年はイカれちゃったわけです(笑)。書いてあるわけですよ。あの監督もこの監督も若松プロ出身だと。で、浪人のとき、名古屋のシネマスコーレへ映画を観に行ったら(劇場オーナーの)若松さんが視察に来ていて、「弟子にしてください」とお願いしたんです。
すると「東京に出てきたらな」と言ってはもらったんですけど、これじゃどこにでもいる映画青年と同じだと思って、名古屋駅まで若松さんを送りに行って、そのまま東京まで付いて行っちゃった。入場券だけで(苦笑)。それでようやく本気だと信じてくれたようで「ウチ(若松プロ)は大体3~4年で監督になってる。でも給料は払わないから大学4年間は親の仕送りで生活して、その間に監督になったらいいじゃないか。だから1回、大学を受けて出直して来い」と。
榎本憲男(以下、榎本) 大学は?
井上 早稲田です。日大藝術学部と早稲田大二文に受かって、若松さんに「どっちにしましょうか?」と相談に行ったら……。
榎本 若松さん的には早稲田だ。
井上 そうです。「映画はウチで学べるから早稲田の名前を取れ」と(笑)。ただ、僕が若松プロに入ったときは若松さんの低迷期。携わった作品は、松居一代主演の『衝撃 パフォーマンス』(1986)から原田芳雄さんの『われに撃つ用意あり READY TO SHOOT』(1990)まで約5年半。本当に仕事がなくて、若松さんは好きなテレビを一日中見ては、ああでもないこうでもないとつぶやいていた。
片嶋一貴(以下、片嶋) 僕はその『われに撃つ用意あり』に照明助手で参加したのが最初で、『キスより簡単2 漂流編』(1991)と『寝盗られ宗介』(1992)の3本。でも、実は『キスより簡単』(1989)に主演していた早瀬優香子の「永遠のサバンナ~薔薇のしっぽ~」のPVを手伝ったのが最初。撮影場所がパレスチナ?
井上 チュニジア。当時はバブルだから結構な予算が出て、若松さんが「海外ロケをやりたい。どうせやるならPLO(パレスチナ解放機構)本部があるチュニジアで」と言い出して。そしたら現地通訳兼コーディネーターがアラファト議長(2004年に死去)の単独インタビューが取れそうだからとそっちにかかりきりになっていなくなるわ、砂漠で若松さんは歯痛になるわで、大変な撮影に(苦笑)。
片嶋 帰路のパリで若松さんが勾留されてね。
井上 若松さんは現金商売の人なので、釣り用ベストに現金を入れていたんです。荷物検査をしたら大金が出てきて、さあ大変。それで空港に一晩泊められた。当時の某新聞には「日本赤軍の資金がフランスに流入か?」と書かれました(笑)。
大西信満(以下、大西) 僕は作品の関わりとしては『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』(2007、以下『連赤』)ですけど、原田芳雄さんにお世話になっていたので面識はありました。以後、『千年の愉楽』(2012)までの5本に参加させていただきました。
――大西さんは『連赤』で一番厳しく指導されたのに(苦笑)。
大西 今となっては本当に感謝しています。ただ『連赤』のときは、カメラが回っていようがいなかろうが、常に若松監督が怒っているような現場だったんです。よく笑い話にするのが、衣装合わせで監督が「雪の中を歩くから黒い服を着ろ」と。でもいざ現場へ行ったら「おまえ、何カッコつけて黒い服着てるんだ!」と。
辻智彦(以下、辻) 黒い服で怒ったのは、大西さんに当たる光の加減が良くなかった。それをスタッフに言うより、現場全体を考えると大西さんのせいにした方がいいと計算していたみたいなんです。
大西 現場の締め方、緊張感の作り方とでもいうのかな。しょせん僕らの世代は、『連赤』の彼らの気持ちを自分たちで持ち上げようがない。だから理不尽でも強引でも、監督は僕ら俳優を追い詰めていくやり方を取ったのだと思います。
辻 僕は公開順でいうと『完全なる飼育 赤い殺意』(2004)ですが、『17歳の風景 少年は何を見たのか』(2005)が最初です。撮影初日が御殿場の自衛隊演習場、新宿駅西口の地下街、そして都庁前と全部ゲリラ撮影。やっぱり若松組はすごいと(笑)。
――ドキュメンタリー畑の辻さんが若松組に参加したきっかけは?
辻 僕が撮影で参加したドキュメンタリー『日本心中』(大浦信行監督、2001)を自主上映したとき、ゲストを呼ばないと客が来ない。じゃあ、客寄せパンダで若松孝二を呼ぼうと。
(一同爆笑)
辻 もちろん学生時代から好きだから若松監督の名前を出したんですよ。で、上映後のトークで若松さんが『17歳の風景』の構想を話し始めたんですけど、「この映画のカメラマンが撮影することになった」と言うんです。こっちは何も聞いてない(苦笑)。その時点でほぼ、僕がやることに。
井上 劇映画は初めて?
辻 はい。だからどう撮るのかもわからなかった。ただ一つだけお願いしたのは、やるならビデオカメラでと。ちょうど若松さんは『飛ぶは天国、もぐるが地獄』(1999)でビデオを使ったそうで、「興味があるんだ」と言っていました。
榎本 僕は、荒井晴彦さんの初監督作『身も心も』(1997)をプロデュースしたんですけど、よく荒井さんの部屋に行くと若松さんが突然来た。で、「荒井と付き合うなんてやめとけ」とか、勝手なことを言っては帰っていく。じゃあ、来なきゃいいじゃんって思うんですけどね(笑)。
――荒井さんとは、学生運動時代にやり合ってからの盟友です(苦笑)。
榎本 その後、時々、新宿のスポーツジムで若松さんに会っていたんです。
井上・片嶋 えっ!? それは知らなかった。
榎本 若松さんはジャグジーにつかっているだけなんですけど、そこでいろんな企画の話をしてくれました。ただ、若松さんの追悼の際、荒井さんが厳しいことを言っていましたよね。晩年の若松さんは荒井さんや足立正生さんを退けて裸の王様になったんじゃないか、と。これまでは、若松作品の観念的な部分を足立さんの脚本が支え、映画的な肉体性を若松さんがうまく接続していた、いい時代があったと言うんです。そこで今回、片嶋さんプロデュース&井上さん監督の新作『戦争と一人の女』(2012)に、初期若松イズムが継承されているのでは? と期待しています。脚本の荒井さんはある意味で『キャタピラー』(2010)への挑戦状だとも。そのあたりをお二人は、どう考えているんですか?
【若松孝二監督追悼座談会】
1.若松孝二監督との出会い、その衝撃
2.若松孝二監督への愛憎、その人間力
3.若松孝二イズムの継承、その高い壁