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第4回-震災映画は当たらないという定説を覆すスマッシュヒット『遺言 原発さえなければ』

映画で何ができるのか

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震災映画が興行成績では苦戦する中でのヒット

映画のタイトルにもなった、故・菅野重清さんが堆肥小屋に書き残した「遺言」
映画のタイトルにもなった、故・菅野重清さんが堆肥小屋に書き残した「遺言」 - (c)NODA Masaya

 「震災映画は当たらない」東日本大震災後、数えきれないほどのフィクションやドキュメンタリー映画が製作されたが興行成績では苦戦を強いられてきたために、そんな定説が映画関係者の間でささやかれるようになった。【取材・文:中山治美】

映画『遺言 原発さえなければ』作品場面写真

 しかし今春、悪い風潮を吹き飛ばすかのようなスマッシュヒット作が生まれた。福島第一原発事故の影響に翻弄され続けている福島県・飯舘村の酪農家を追ったドキュメンタリー『遺言 原発さえなければ』だ。当初は東京・ポレポレ東中野で3月8日~14日の1週間限定公開。3時間45分の大作ゆえ、1日1回の上映で入場料金3,000円(当日券・一般)と異例の公開形態ながら、連日約200人が駆け付ける事態に。客席数110席の劇場には入りきれず、急遽、建物内の多目的スペースに第2会場を設営した。それでも収まりきらず、やむなくお帰り頂いた客もいたという。熱い波は地方公開が終わった今も続いており、毎月のように自主上映も行われている。目標1万人の観客動員も現実的になってきた。

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 同劇場の大槻貴宏支配人が、公開を英断した理由を語る。
「基本的に震災がテーマであろうが、映画的に面白かったら上映します。ただ確かに、依頼が来た時に断りにくいテーマではあります。断る方の方便として『震災映画は当たらないから』という理由を使っているのではないか?」。

 ポレポレ東中野
2014年3月8日~14日の東京・ポレポレ東中野の公開は、座席数110席の劇場に、連日約200人が押しかけた。(オフィシャルFacebookより)

 同劇場の中植きさらは「震災前から原発問題を取材してきた情報量の多い監督たちが、原発事故直後から現地に入って積み重ねた取材量は圧倒的で、まさに震災映画の真打ち登場のような大作感があった。また、彼らがこれまでの取材や写真展などで培ってきたネットワークが観客動員につながったのではないかと思う」とヒットの要因を分析する。

フォトジャーナリストが作った異色の作品

 異色の作品である。大震災後、多くのドキュメンタリストがカメラ片手に被災地へと向かったが、本作を手掛けたのは共にフォトジャーナリストの豊田直巳と野田雅也。今やフォトジャーナリストもデジタルカメラを併用するのが常識で、写真は雑誌や新聞へ、動画はテレビ局のニュース番組などで活用されてきた。しかし震災から時間が経過するにつれ、ニュース番組内で扱われる機会は減少の一途。活路として見出したのが、「映画」だったのだ。豊田監督が語る。「ただ、ニュースの場合は報道に値するかどうかが重要だが、映画は客にお金を戴く以上、面白い作品になるか? 否か? が基準となる。自分では映画になるのか確信が持てなかったので、安岡さんに見てもらったんです」。

 ポレポレ東中野
劇場が満杯となったため、急遽、第2会場を設営して上映が行われた。その波は全国各地での興行や自主上映へと広がっている。(オフィシャルFacebookより))

 “安岡さん“とは、映画プロデューサーであり日本映画大学教授の安岡卓治のことだ。森達也監督がオウム真理教の内部に迫ったドキュメンタリー『A』と『A2』の製作・撮影・編集を担当し、自身も共同監督を務めた『311』で震災直後の被災地へ赴いたこともある。安岡は、豊田監督らから渡された250時間もの記録映像を見て「これはスゴい」と二つ返事で編集を引き受けたという。

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 「今までも広河隆一さんや綿井健陽さんといったフォトジャーナリストとも作品を作ってきたが、彼らは絶対逃さずに決定的瞬間を撮ってくる。加えて皆さん取材の濃度が濃く、撮り手と被写体の関係がちゃんと映像に表れている。しかも今回は共同監督で、1人は別角度や(被写体から)引きの映像を撮っていたこともあって素材も多く、映画として作りやすかった」。

被災者のために何をすればいいのか?

長谷川健一さん
登場人物の一人、飯舘村の酪農家・長谷川健一さんは今や自らカメラを持ち、写真展や全国での講演活動を行っている。(東京・新宿にて)

 それを象徴するのが、劇中で軸として登場する前田行政区区長で酪農家の長谷川健一さん夫妻と豊田監督が、杯を傾けながら本音を語り合う場面だ。先の見えない生活に揺れる心を吐露する長谷川さんと、それを涙ながらに聞きながらジャーナリストとしての無力さを詫びる豊田監督、そんな彼らの人間味溢れる姿を映す野田監督のカメラという三位一体で生まれたシーンは、本作をより魅力あるものとした。長谷川さんも「2人を信用しようと思ったのは、一緒に酒を呑んだときだな。そうして話をしていくうちに信頼関係が出来上がっていったと思う」と言う。

 安岡が明かす。「最初は呑みのシーンは100パーセント使わないつもりだった。野田さんは面白がってカメラを回しているけど、豊田さんも最初は『(映画から)外して下さい』と言っていた。でも見始めたら豊田さんが泣き始めていて、『なんだ!? これはイケるんじゃないか!』と。まさに撮り手と撮られる側の関係が見える核となるシーン。特に豊田さんの反応は、あの当時の僕らの、『被災者のために何をすればいいのか?』という気持ちとシンクロしていた」。

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 印象深いシーンがある。日頃は村民や家族を束ねる長として、行政にも果敢にモノを言ってきた長谷川さんだったが、酒が進むにつれてふと「首くくるしかねぇかな」と弱音を吐くのだ。その時は豊田監督が「前の日に教えてね」とスクープを狙うかのようなジョークを飛ばしたために笑い話で終わっている。だが、時間が経過するにつれて周辺では、堆肥小屋に「原発さえなければ」の遺言を遺した同じ酪農家の菅野重清さんや、先頃、原発避難者自殺訴訟で裁判にもなった川俣町の渡邉はまこさんなど自殺者が相次いだ。もしかしたら、カメラが長谷川さんの命を救ったのではないか……と考えずにはいられない。長谷川さんの妻・花子さんが当時の心境を振り返る。

 「あの頃、両親も息子家族も避難させて、飯舘に残っていたのは私たち夫婦だけ。しかも朝晩、牛に餌をやるだけで(放射能の影響を鑑み)家にこもるだけだから、どうしても2人でいると深刻な会話になってしまう。そんな時にいろんなジャーナリストの方が来て、酒でワイワイやることで一時でも(不安を)忘れられた。取材が、私たちの救いになったことがいっぱいありました」。

今も続く失われた日常を取り戻す闘い

牛たちを手放す場面
劇中、手塩に育てた牛たちを手放す場面では、酪農家のみならずカメラを回していた豊田・野田両監督も涙を流したという。(c)NODA Masaya

 映画は2013年4月までの記録だが、当然だが長谷川さんたちの、失われた日常を取り戻す闘いは続いている。福島県伊達市の仮設住宅で避難生活を送りながら、今では自身が撮り手となって写真展や講演活動を行ったり、東電への損害賠償の増額を求めて、飯舘村民規模で国の原子力損害賠償紛争解決センターへの集団申し立てを行うべく、発起人として奔走している。安岡が語る。

 「ドキュメンタリーというのは、取材された人間が自分の姿を見ることで、客観的に評価し、生きるベクトルが主体的に軌道修正されるということがほとんどの作品で起こる。長谷川さんは取材ですべてを語るという覚悟だけではなく、遂には自分で撮り始めて、表現する側になってしまったのだから。そうしたプロセスが、この映画に凝縮されている」。

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被災者にカメラを向けることへの課題

 震災時、メディアがこぞって被災者にカメラを向けたことで、その暴力性が問題視された。それは災害や凄惨な事件が起こる度に繰り返される、大きな課題でもある。だが一方で記録的な価値と、小さき声や真実を広く世間に伝える効力も間違いなくカメラにはある。そのことを、この映画が証明していると言えるだろう。

山形国際ドキュメンタリー映画祭
写真左から野田雅也監督、豊田直巳監督、編集の安岡卓治(2013年の山形国際ドキュメンタリー映画祭にて)

 豊田監督が語る。「もしかしたらこの映画は、ニュース番組では報じられないものを映しだしていたのかもしれない。今後、損害賠償問題や、3.11を振り返るときに、飯舘村の人たちがどんな風に追い出されて、どんな表情をしながら去っていったのか。その時の苦しさも、これを見ればきっと伝わると思う」。
 両監督とも、今後も村民たちの取材を続けていくという。

 
《第5回予告》
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