『美女と野獣』(1946年)監督:ジャン・コクトー 出演:ジャン・マレー、ジョゼット・デイ 第41回
名画プレイバック
詩人としてだけでなく、小説家、劇作家、評論家、画家、映画監督など多彩な顔を持ち、各界の著名なアーティストとの交友関係も広かったジャン・コクトー。各分野で既存の価値観に縛られることなく、自由に自らの芸術、表現方法を模索し追求し続けた人物でもあった。想像力を刺激しまくる『美女と野獣』(1946)は、まさにそのことを実感させられる幻想譚の傑作である。(文・今祥枝)
美しく気立ての良い娘ベル(ジョゼット・デイ)は、口やかましい姉アデレードとフェリシエに召使いのようにこき使われているが文句も言わず、家事をこなす日々。ある日、商人の父(マルセル・アンドレ)の船が海に沈み、破産の危機に陥る。まもなく一隻が入港したという知らせを聞き父は港へ旅立つが、債権者に船を押収され全てが徒労に終わった帰り道、夜の森で不思議な古城に迷い込む。城を出る際に、庭の美しい一輪のバラを手折ると野獣(ジャン・マレー)が姿を現わし、命の代償として娘の一人を差し出すよう命じる。迷わず志願し城へ向かったベルは、野獣の姿に最初は驚くが、次第にその優しさに心を開いていく。だが、父の病を知り一週間の約束で家に帰ると、彼女に求愛するアヴナン(ジャン・マレー)と着飾ったベルに嫉妬する姉妹らは結託してベルを城へ帰さず、城にある宝を奪おうとする……。
広く世に知られているこの物語で、現在最もよく知られているバージョンは1991年のディズニーアニメーション『美女と野獣』だろうか。そもそもは1740年にヴィルヌーヴ夫人によって書かれたものを短縮した、1756年に出版されたルプランス・ド・ボーモン版が現在のスタンダードとなっている。グリム童話の中にも類似作があるが、コクトー版はボーモン版を原作とし、一般的に私たちが知る物語と大筋は同じだ。
映画はコクトー自身による言葉から始まる。「子供たちは大人の話を素直に信じ込みます 一輪のバラの花から始まる不思議な不思議な物語です(中略)みなさんも ちょっぴり子供に帰ってみませんか」。さらに、「それでは例の呪文を! “開けゴマ”昔々あるところに……」と続いて映画は幕を開けるのだが、コクトーの言葉はまさに観客に魔法をかける呪文のよう。一気に引き込まれる幻想的な世界は、まるで1ページずつ本をめくるかのような、あるいは物語を読み聞かせてもらっているような感覚を覚えるものだ。
とはいえ、本作は極端にセリフが少ない点が特徴でもある。数多くのフランス映画の名作に、『ローマの休日』(1953)や『ベルリン・天使の詩』(1987)などを手がけた、アンリ・アルカンによるモノクロームの映像の素晴らしさ。『ローマの休日』や『悲しみよこんにちは』(1958)などを手がけた作曲家ジョルジュ・オーリックによる、ロマンチックで幽玄な音楽。とりわけフランスのファッションデザイナー、ピエール・カルダン(ノークレジット)による衣装は、たっぷりとしたボリューム感がありながらエアリーで、ベルが何層にも薄い布が重なったドレスをふわりと纏いながら(すーっとすべるように)城の廊下を歩くシーンなどは、この世のものとは思えない美しさ。同時に、風の音や揺れる木々のざわめき、水の音、陽の光、ろうそくの灯りが揺れ濃淡も細やかにゆらめく影が、ベルと野獣の微妙な関係性の変化、感情の機微を雄弁に物語っている。セリフは少なくとも、映像は実に饒舌なのだ。
後に『禁じられた遊び』(1952)などを生み出すルネ・クレマンを右腕としながら、コクトーがセリフに頼らず本作にかけた魔法は、今ならVFXやCGを駆使して描かれるであろうファンタジーのシーンからも明らか。野獣が住む城では、壁から人間の片腕が何本も出ていて各々が燭台を掲げていたり、壁の彫像の顔が動いたりする。あまりにも子供だましに思えるが、コクトーはファタンジーの表現において、あえてある種のリアリズムによって観客の想像力に委ねるという方法を取っている。例えば、テーブルの上ににょきっと伸びている“手”が独りでにベルの父親に酒を注ぐシーンでは、父親はわざわざテーブルクロスの下を覗き込み、「誰もいない」ことに驚愕したような表情を浮かべてみせる。見えない人の“手”の動きはぎこちないし、野獣の造形や両手から煙が立ち上る様子など作り物っぽさは否めないが、コクトーはいかにもファンタジーらしく紗(しゃ)をかけたりぼかしたりなどはせず、波や蒸気を効果的に使った重ね焼きやフィルムの逆回転、早回しなどの古めかしい手法に果敢に取り組んでいる。映画の魔法を信じるか信じないかは観る人個々にかかっているのであり、観客の「信じる心」を信じることが、コクトーの本作における最大の挑戦だったとも言えるだろう。
この古典的な手法は、私がこれまで観た中でも最も美しいと思われるシーンを数多く生んでいる。中でも、ベルが魔法のグローブを片手にはめて瞬時に実家と城を行き来するシーンは、まるでベルのドレスが蕾から一瞬にしてふわりと花開くかのように見えて、なんてロマンチックなんだろうと心を奪われる。ちなみに、本作に登場するグローブと鏡はコクトーが好んで使った魔法のアイテムで、監督作『オルフェ』(1950)などでも興味深い使われ方をしている。
一方で、一見すると誰もが知るおとぎ話のようでいて、解釈には“深読み”する楽しみがあるのもコクトーならでは。ベルは思いやりがあり、見た目は醜い野獣の本来の姿=優しさに気づき好意を抱くようになるのだが、彫像のように完璧な美形俳優ジャン・マレーが演じるベルの兄の友人でベルに求婚するアヴナン、野獣、魔法が解けた野獣=王子の3役を演じている点がポイント。ベルはアヴナンの求婚を断るが好意を抱いており、野獣からも求婚され好意を抱きつつも断り続ける。後半で実家に一時帰宅した際にアヴナンと再会し、アヴナンから「野獣を愛しているのか?」と聞かれて「いいえ、好きだけど愛とは違う」と明言する。だが、結論から言えばベルは野獣を愛していたのだ。城に戻って死にかけた野獣に涙を流すと野獣は人間の姿に戻るわけだが、ベルは瞬間戸惑ったような表情を見せる。魔法を目の当たりにしてびっくりしたとも受け取れるし、あるいは「兄の友人に似ている」ことが複雑な思いを抱かせたのだろうか。ここで驚くのは、王子に「その男(アヴナン)を愛していたのか?」と聞かれると「ええ」と答え、「野獣も愛していた?」と肯定的に言われると、それにも「ええ」と笑顔で答えるベルの率直さだ。
コクトーは魔法が解けた王子の姿を、「できるだけつまらない男」に映るよう撮影監督のアルカンに指示したという。ベルは、おとぎ話的には王子と結婚し、子供を産み、めでたしめでたしとならなければならないのだが、コクトーからすれば、それは夢から覚めた“現実”に他ならないからだ。チャラ男で資産もないが非常に魅力的な美男子アヴナンの面影もありつつ、野獣のような冒険はないが経済的に困ることはない王子と一生を共にするという結末は、ベルにとってもまた魔法を解かれて現実を受け入れた瞬間ということか。不思議なことに、純真無垢に思えたベルがラストシーンで王子に向ける笑顔は大人びて艶っぽく、恋愛上級者のそれに見える。一方、アヴナンとしてはきらきらしいマレーは、野獣としては唯一感情表現が可能な目に悲しげな憂いと熱烈なベルへの想いをたぎらせ、ラストで美男だが凡庸な印象を与える王子を体現している。結末は同じでも、コクトーのおとぎ話の解釈は一筋縄ではいかないようだ。
本作は、時代の流行に逆行するようなスローなテンポと古典的な手法を駆使した、平たく言えば「手作り感」満載の表現によって公開当時、批評家からは酷評も少なからずあった。現在では本作の評価は揺るぎないものとなっているが、当時この作品をもっとも熱烈に支持したのは観客であったようだ。コクトーは本作がプラハで上映される際に観客への挨拶文を録音し、次のように結んでいる。「早とちりをする知性の眼を閉じて、早とちりしない心の眼を開けて下さい。なすがままに任せて」と。何が嘘で、何が本当なのか。今日に至るまで映画の技術の進化は目覚ましく、リアリズムの追求は毎年過去最高のレベルを更新し続けていると言っていい。そうした時代にあって、コクトーの『美女と野獣』は新鮮な驚きをもたらすとともに、映画という芸術について改めて考えさせられるものがあると思う。