なぜ彼は銃を持たずに戦場に向かったのか?戦争が続く現代に一石を投じる実話
第89回アカデミー賞
太平洋戦争末期、「人を殺めない」という信念から銃を持たずに沖縄戦に動員され、多くの負傷兵の命を救った米陸軍衛生兵デズモンド・ドスの実話を基にした感動作ーーアカデミー賞で作品賞をはじめ主要6部門にノミネートされた『ハクソー・リッジ』のこの短い紹介文から筆者は、なぜ主人公の青年ドスは「敵兵であっても殺さない」という強い信念を持ったのか、そのうえでなぜ「銃を携帯せずに戦場に行く」ことを切望したのか、という二つの疑問を持った。(文:山口直樹)
『ブレイブハート』(1995)でアカデミー賞監督賞に輝き、この作品でも同賞にノミネートされたメル・ギブソンの演出は、さすがにうまい。冒頭でドスが幼少期にけんかで弟を殺しそうになってショックを受けたことは示されるが、その後の葛藤は描かない。陸軍の訓練所で上官はもちろん仲間からも厄介者扱いされ、いじめを受けてもドスは何も語らない。軍事裁判で有罪となる危機に陥って初めて「兵に志願した切なる思い」を吐露する。さらに、ハクソー・リッジ(ノコギリ崖の意味で沖縄の前田高地の断崖を指す)の戦いで、初めて“戦争”を体験した直後、それまで「人を殺したくない」のは敬虔なキリスト教徒ゆえの信念と思わせていたドスが、それより深く重い理由があったことを戦友に話すのだ。
ここまではドスの心情を推理させる構成で、軍の考え方や兵士たちの人物像、彼を巡る恋人や家族のドラマが過不足なく描かれる。そうして、ドスの“希望”がいかに非現実的だったのかを示し観客の興味を引き付けていく。しかし、激戦が始まるとともにギブソン監督は、ドスの視線で観客に戦場を体験させる作りに変え、驚きと感動の連続となる。苛酷な戦場で武器を持たない衛生兵に何ができるのか……? ドスは神の声を聞いたりはしない。まだ息のある戦友の呻(うめ)きを耳にし、一人でも多くの負傷者を救いたい一心で、唖然とさせられる行動に走る。そして観客は、ドスの感情のうねりに身をゆだね、神出鬼没の日本軍の巧みな戦術の全容も彼の目を通して知るのだ。
そうした日本軍のゲリラ戦と「最後まで戦って死ね!」とたたき込まれた日本兵の凄さや怖さは描かれるものの、米兵たちは「敵も必死だ」と話すだけで罵倒はしない。ギブソン監督は、善も悪もなくひたすら至近距離で兵士たちが殺し合う戦闘の残酷さをリアルに描き、そのなかでただ一人、無我夢中で人の命を救おうと力を尽くすドスの姿を注視させる。
強い意志と純粋さを持ったドスを見事に体現し、アカデミー賞主演男優賞にノミネートされたアンドリュー・ガーフィールドの静かな熱演はもちろん、温もりを感じるドスの励ましに生気を取り戻す負傷兵たちにふんした脇役も、素晴らしい表情を見せ、胸を打つ。
誰もが「ばかげた考え」で「足手まといになるだけ」と思った一人の青年の思いと行動が、戦場で想像すらできなかった奇跡を引き起こした。「戦争のない平和な世界」は「実現不可能な理想」と見なされがちな今、この“奇跡の映画”が問いかけるものは多い。