23歳で死去…『スタンド・バイ・ミー』リヴァー・フェニックスの壮絶人生
「金曜ロードショー」(日本テレビ)が、視聴者リクエストとして今夜『スタンド・バイ・ミー』を放映する。1986年に米公開されたこの映画は、当時16歳だったリヴァー・フェニックスを一気にスターにしたヒット作だ。彼はその後、大人の俳優へと着実に成長していったが、1993年、23歳の若さでこの世を去っている。短すぎたその人生を振り返ってみよう。(文:猿渡由紀)
【画像】美しすぎた…23歳でこの世を去ったリヴァー・フェニックス
リヴァーは1970年、オレゴン州生まれ。母はヒッチハイクをしている時に父に出会い、リヴァーを生んでからも一家は各地を転々として回った。両親がカルト宗教にはまって、ベネズエラに住んだこともある。そんな家庭に育った彼はほとんど学校に行かず、妹のレインとサマー、弟のホアキンと道端で歌っては、通行人から小銭をもらい、家計を助けていた。
エンタメ界に入ったのも、それがきっかけだ。ロサンゼルスのウエストウッド地区で弟、妹たちと歌っているところを、あるタレントエージェントに発掘されたのである。最初の仕事はコマーシャル。続いてテレビの仕事が入るようになり、1985年のSFファンタジー『エクスプロラーズ』で映画デビューを果たした。その次に出演した映画が『スタンド・バイ・ミー』だ。スティーヴン・キングの小説を映画化したこの青春映画は、公開前の期待が低く、アメリカでは16館の限定公開でスタートしている。それがどんどん拡大し、世界的ヒットとなったのだ。まさに口コミによる成功例である。
今作でティーンのアイドルとなった2年後には、シドニー・ルメット監督の『旅立ちの時』でオスカー助演男優賞にノミネート。翌1989年には『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』に若き日のインディ・ジョーンズ役で出演、1991年には『マイ・プライベート・アイダホ』でベネチア国際映画祭の男優賞、インディペンデント・スピリット賞の主演男優賞を受賞した。
だが、成功への階段を駆け上がる裏で、彼はアルコールとドラッグの問題を抱えていた。『マイ・プライベート・アイダホ』のガス・ヴァン・サント監督によると、イメージダウンを恐れるリヴァーは、必死でその事実を隠していたという。死の直前まで交際していたサマンサ・マシスも、彼の依存症にはまるで気付かなかったと語っている。
そして、悲劇が起きてしまったのだ。それはハロウィン前夜の10月30日。音楽に真の情熱を持っていたリヴァーは、この夜、演奏者の一人として、ジョニー・デップが経営するナイトクラブ、ザ・ヴァイパールームにやって来た。出演前、リヴァーはその場にいた友人に体調不良を伝え、その友人は帰宅することを勧めている。しかしリヴァーは拒否し、それからまもなくクラブの外で倒れているところを恋人サマンサが発見した。救急車を呼んだのはホアキン。到着を待つ間、必死の救命措置をしたのはレインだ。そんな努力もむなしく、リヴァーは、日付が変わった午前1時過ぎ、搬送先の病院で帰らぬ人となった。解剖の結果、死因はコカインとモルヒネの過剰摂取と判明している。後にサマンサは、クラブ内で誰かがドラッグをやっている姿は目撃しなかったものの、その夜のリヴァーは明らかにハイで、嫌な予感がしたと語っている。
酒やドラッグという体に悪いものを多用した一方、食生活においては7歳の時から厳格な完全菜食主義者(ヴィーガン)を貫いてきた。来日で蕎麦を食べようとしていたところ、つゆに鰹節が使われていると知って箸を置いたというエピソードもある。最初の恋人マーサ・プリンプトンも、ニューヨークのレストランでソフトシェルクラブをオーダーしたところ、リヴァーが立ち上がって店を出ていったという思い出話をメディアに語っている。
ホアキンも同様にヴィーガンで、『ジョーカー』で主演男優賞を受賞した2020年開催のゴールデン・グローブ賞授賞式では、この年から授賞式で出される食事がヴィーガンになったことに感謝の言葉を述べていた。ホアキンはまた、オスカーの受賞スピーチで、今は亡き兄が書いた歌詞(Run to the rescue with love and peace will follow=愛をもって手助けすれば平和が訪れる)をメッセージとして世界に伝えている。
弟が栄誉を手にした瞬間を間近で祝福してあげられなかったことを、天国にいるリヴァーはきっと残念に感じていたことだろう。同時に、短い人生で自分が達成できなかったことを弟が達成したことについて、大きな喜びと誇りを感じたに違いない。リヴァーがオスカーを受賞する姿も、ぜひ見てみたかったものだ。優れた才能があんなに早く逝ってしまったことが、心から悔やまれる。せめて今晩は、彼の魅力をあらためて堪能したい。