略歴: 映画評論家/クリエイティブディレクター●ニッポン放送「八木亜希子LOVE&MELODY」出演●映画.com、シネマトゥデイ、FLIX●「PREMIERE」「STARLOG」等で執筆・執筆、「Dramatic!」編集長、海外TVシリーズ「GALACTICA/ギャラクティカ」DVD企画制作●著書: 「いつかギラギラする日 角川春樹の映画革命」「新潮新書 スター・ウォーズ学」●映像制作: WOWOW「ノンフィクションW 撮影監督ハリー三村のヒロシマ」企画・構成・取材で国際エミー賞(芸術番組部門)、ギャラクシー賞(奨励賞)、民放連最優秀賞(テレビ教養番組部門)受賞
近況: ●「シン・ウルトラマン」劇場パンフ執筆●ほぼ日の學校「ほぼ初めての人のためのウルトラマン学」講師●「るろうに剣心 最終章 The Final/The Beginning」劇場パンフ取材執筆●特別版プログラム「るろうに剣心 X EDITION」取材執筆●「ULTRAMAN ARCHIVES」クリエイティブディレクター●「TSUBURAYA IMAGINATION」編集執筆
80年代に実現していれば事件だった。67歳のスタローンと66歳のシュワルツェネッガー、遅すぎた初の“本格”競演。往年の人気歌手が「年忘れにっぽんの歌」で勢揃いするかのような『エクスペンダブルズ』シリーズの自虐臭などなく、本気である。しかも、IQが低い活劇と揶揄されることへの返礼なのか、設定上スタローンは頭脳明晰な脱獄のプロだ。敵か味方かわからないシュワルツェネッガーと手を組み、難攻不落の監獄要塞に挑む。ありきたりだ。
とはいえ、若手や中堅のスターでは出せないオヤジ臭を放ち、老体に鞭打ちながら走って殴って銃をぶっ放す。もちろん、デ・ニーロとアル・パチーノが『ヒート』で競演したときのような観る者を高揚させる演技的ケミストリーは全く起こらない。2人の80年代アクションスターが、いや、2つの筋肉の塊が、予想通りの結末に向かっていく。
これは、「映画」そのものが後期高齢者へ向かいつつある時代の象徴かもしれない。ヒットするかどうか、それはレンタル店愛用オヤジ世代が、DVD化を待たず、転ばずに劇場へ向かって走るかどうかに掛かっている。
記憶に新しいソマリア沖で起きた海賊襲撃事件の映画化だが、あくまでも息詰まるエンターテインメントを志向している。生命を脅かされた状態下、如何に生き残るのか。4人の海賊を同時に射殺することなど可能なのか。プロセスを丹念に積み重ねる。事実に基づくだけあって展開は一筋縄にいかない。大海原での攻防戦や人質が味わう恐怖のリアリティをドキュメンタリータッチで描いていく。ポール・グリーングラス監督は多用してきた手持ちキャメラによる画面動を抑え気味にし、俳優に委ねた。トム・ハンクスを極限状況に追い込み、表情の変化で絶望と希望を巧みに表現する。
金を収奪しようとする海賊を単純な悪として描いていない。漁師だった男たちが、生活のために海賊になってしまった事実にも触れる。しかし彼らの正当性を認めることなく、人間の愚行として客観視する姿勢は、マスコミ報道よりもニュートラルにさえ映る。トム・ハンクスの演技的見せ場は最後の最後に訪れる。徒手空拳サスペンスに始まり、孤立無援サバイバルを経て、海上救出アクションへ到る。時事的テーマを素早く盛り込み、娯楽活劇に仕立て上げた秀作だ。
映画の中の千利休といえば、三船敏郎や三國連太郎ら名優が晩年に挑むイメージが定着していた。市川海老蔵という意外性には膝を打つ。所作の世界という共通項が求道者を表現する上でハマり、これまでの利休像を打ち破る。むろん「おーいお茶」とは叫ばず、映像的にはむしろ高級茶CMのように、至って厳か。シネマスコープによる国宝級建造物ロケは、どのカットも美しい。ただ、あまりに画が完成されすぎ映画的ダイナミズムは乏しい。
肝は何か? 「世の中を動かしているのは力と金だけではない。私がぬかずくのは美しいものだけ」と悟った利休の美意識の原点が、実は、浮き名を流し暴走した青二才時代の狂気にあったという仮説だ。主演俳優の近過去がダブり、すったもんだはあったが、こうして花の海老さまも「枯淡」に向かうという架空ドキュメントにさえ思えてくる。
利休が変心していくきっかけとなるのは、高麗の女。韓国女優クララの魅力が後半を牽引する。許されぬ恋に若き日の利休は燃え上がり、悲劇を招いてしまう。しかし韓流風ロマンス場面は通俗の極みに映り、芸術家が到達した境地のルーツであるという説得性は弱い。
宮崎駿の熱情がふつふつとたぎる紅い太陽ならば、高畑勲の知性は冴え冴えと照らす蒼い月だ。長い闇を経て高畑の執念は実った。水彩画や水墨画を思わせるかすれ気味の線に、塗り残しと余白。“生命を得て躍動する日本画”と呼びたいほどにアートとしても貴重な一品である。『竹取物語』の筋書きをそのままに、原作には描かれていない要素へ思慮深い解釈を加えることで今と斬り結び、淡い光で生と死の世界の在りようを浮き上がらせる。
かぐや姫とは、本作の中で「ファンタジー」を一身に担う存在。成長目覚ましい絶世の美女は、人々に一体何をもたらしたか。それは「不幸」である。彼女の存在に触れた周囲の人々は皆、幸せから遠ざかる。観る者はカタルシスなど得られない。高畑はファンタジーが人を不幸に陥れるというむごい現実を冷徹に突き付けた。アニメはこの30年、いや高度成長期からの半世紀以上、果たして私たちを幸せにしてきたのだろうか。ファンタジーを否定する本作の苦々しさは、アニメの中で願望を充足させようとする者たちへの痛烈なメッセージでもある。かぐや姫は、現代人の負の肖像だ。
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メイキングではない。リアルとポエムの境界線上を漂う「物語」だ。妖しげな湯屋の門をくぐった千尋のように、砂田麻美監督はジブリに棲む住人に瞠目し感化され、表向きは夢と理想を司る厄介者の人間性に触れていく。ジャーナリストの野心ではなく作家の眼差しによって。最も魅力的な被写体は、饒舌に思考する矛盾の塊・宮崎駿。陰に陽に全てを操るしたたかな博徒・鈴木敏夫もまた善人に映る。不在のまま君臨する全知全能の王・高畑勲の圧倒的な存在感にも肉薄し、微妙な均衡の上に成り立つ王国の正体が立ち現れる。
約30年前の映像との対照が、燦然と輝いた王国にも落日が近いことを思わせる。次代を担う面々にも抜かりない。戸惑い怒る宮崎吾朗、耐え忍ぶ西村義明、仕掛けをまさぐる川上量生、そして、縁深く巻き込まれた庵野秀明。皆、静かな狂気を湛えつつ、自身よりも縁を重んじ、今を読んでいる。菅直人と安倍晋三が登場する。大手メディアにも自主規制が忍び寄るきな臭さに言い及ぶシーンを用い、ジブリとは、映画界よりも日本というコンテクストの中でこそ存在してきた事実を描く。アニメーションの筋肉が「意志」ならば、本作の反射神経は「探究心」だ。