略歴: 文筆稼業。1963年東京都生まれ。「キネマ旬報」「月刊スカパー!」「DVD&動画配信でーた」「シネマスクエア」などで執筆中。近著(編著・執筆協力)に、『伝説の映画美術監督たち×種田陽平』(スペースシャワーブックス)、『寅さん語録』(ぴあ)、『冒険監督』(ぱる出版)など。
近況: またもやボチボチと。よろしくお願いいたします。
そこに描き出されてゆく、「平山という名の男が日々をシンプルに愛でる姿」にはほとんど共感を覚えない。東京の街の捉え方もファンタジー過ぎるだろう。だが、終始惹きつけられるのだ。監督ヴィム・ヴェンダースの夢想する“ランドスケープの映画”として。こんな絵空事があってもいい。
本作はまた、どこを切っても役所広司のアイドル映画、でもある。ヴェンダースは彼を通してリスペクトする小津安二郎、並びに小津映画の代表的人物・平山を偶像幻視しているのだから。そして全篇、役所広司の特性である「クレショフ効果」が及んでおり、その視線の先に(好むと好まざるとにかかわらず)観客各々の“世界の見え方”が現出するのであった。
ジョルジョとニーノ、と名付けられた青年ふたりの淡い恋。史実(=ジャッレ事件)からインスピレーションを得ているので、結末はすでに多くに知られている。だが、脚本と初監督を手がけたジュゼッペ・フィオレッロは臆さずに彼らの生の軌跡と、取り巻いていた社会の不寛容を独自に再現し、われらに差し出す(ラミロ・シビータの撮影が素晴らしい!)。
高揚したジャンニが部屋で母親の手を取り、突然踊りだす印象的な場面で流れるのは、60年代イタリアを代表する歌手、そしてゲイであったことで不当に傷つけられたウンベルト・ビンディの名曲「IL MIO MONDO」(邦題「私の世界」)。これが(その歌詞も相まって)とても切ない。
様々なエスタブリッシュメントに対して“LOVE & HATE”の感情を抱えつつ、その本質を探ってゆく北野武の作法。今回は先行する戦国時代が舞台の映画やドラマ、“本能寺の変”を描いた多くのスタンダードな作品スタイルに物申している。
一見『アウトレイジ』型の群雄割拠の権力闘争劇だが、『みんな~やってるか!』(95)や『龍三と七人の子分たち』(15)で試されていたコントの羅列が盛り込まれ、時代劇へのシニカルな視点も散見する。つまりは暴力や死が、笑いのための“フリ”として機能しているのだ。豪勢なキャストの中では下克上の世を転がってゆく中村獅童が一際いい。たけし扮する同じ百姓出の秀吉と比すべき役柄に。
一篇の「映画」としてすこぶる面白い! カメラが捉えるのは密着対象、或る“かぶき者”とその眺めている世界、だ。長年、選挙取材を生業としている男――好きが高じて“選挙ジャンキー”になってしまったフリーランスライター・畠山理仁氏のヤバい熱情が、本作をぐいぐいと引っ張ってゆく。
撮影も担当した前田亜紀監督の構成と編集(=宮島亜紀)が特に秀逸。密着人物ドキュメントというと『情熱大陸』を思い浮かべるが、あれは主人公がハッキリしている。こちらは、畠山氏の選挙取材の中で、(むろん演出など一切つけていないにもかかわらず)他者によって彼の「主役感」が揺らぐ瞬間があり、意想外のリアクションに胸熱くなるのであった。
自ら起こした交通事故で視力を失った母親と、半身不随となった娘。彼女に装着したコンタクトレンズ型デバイスを通して主観映像を転送、チェロ奏者であった二人は“一卵性母娘”となり、共依存のハーモニーを響かせ始める。その生体実験を司ったのはMADな父と息子で、ヘルタースケルター(しっちゃかめっちゃか)な展開にいっそう拍車をかけるのだ!
これは本気なのか、冗談なのか。いや、真面目に観たらダメだ。かのアンディ・ウォーホル監修、監督ポール・モリセイの『悪魔のはらわた』(73)みたいなブッ飛んだホラーコメディの味わい。前作『写真の女』(20)もそうだったが“奇想の作り手”として、串田壮史監督は今後も期待大。