略歴: 文筆稼業。1963年東京都生まれ。「キネマ旬報」「月刊スカパー!」「DVD&動画配信でーた」「シネマスクエア」などで執筆中。近著(編著・執筆協力)に、『伝説の映画美術監督たち×種田陽平』(スペースシャワーブックス)、『寅さん語録』(ぴあ)、『冒険監督』(ぱる出版)など。
近況: またもやボチボチと。よろしくお願いいたします。
屋上にあがって煙草を吸う男と、背後にある満開の桜、朝空のショットからこの物語は始まる。桜の木と空は物言わないが以後、彼のことをずーっと見守っている。ごくごく当たり前に在る桜の木と空。だがそれら、いや、身のまわりに在る万物が「当たり前に在るわけではない」と男に、そして我々に気づかせるのが『あん』という映画だ。
あるいは本作は、河瀬版『サクリファイス』にも見える。S・ニクヴィストとは言わないが、撮影を担当した穐山茂樹の手腕も大きい。映画の中心を担う和菓子どら焼きの“生地”と“あん”は、ここでは外面と内面、表層と深層の比喩と捉えたい。両方が合わさって調和したとき、確かなる世界が生まれるのだ。
というわけで、V・モーテンセンは本来、荒れ野に放つべきなのだが、本作では古代ギリシャの遺跡アクロポリスをはじめ、異国情緒溢れるロケーションに立たせている。全身白スーツと白のパナマ帽で。眩しいくらいのカッコよさ。しかし案の定、(心の)荒れ野へと引っ張られていき、最後にはトルコ、イスタンブールの裏路地を逃げまわる。
注目しておきたいのは1962年という時代設定。1960年には、英国の植民地支配から独立したキプロスをめぐってギリシャとトルコが対立しており、ここでもモーテンセンは民族間の紛争を背負っている。ラストは『第三の男』を援用、ただし悪漢ハリー・ライムよりもだいぶ小物であるのだけれど。
V・モーテンセンは荒れ野に放て! これは勝手に唱えている映画的真実であるが、彼の「荒れ野映画」に忘れ難い新たなる一本が加わった。原作者カミュの分身のごとき役柄を得て、モーテンセンは荒涼という言葉などとうに超えた、不条理感をむき出しにした大地をさまよう。
彼に同伴するのは、殺人容疑でほとんど運命が詰んでいるアラブ人(R・カテブ、名演)、そしてN・ケイブとW・エリスが作ったささくれだった音楽(これもイイ)。アルジェリア戦争のとば口で確固たる正義が判然としなくなってゆく中、仏軍のある行為を執拗に糾す。その“真っ直ぐさ”に胸が熱くなる。モーテンセンは、心の荒れ野でもがく役柄が実に“画”になる。
夢かうつつか、まどろみのような時間が過ぎてゆく。亡き人のことを想う“追憶”とはそんな特別な体験であり、本作にはその「喪の時間」の肌触りがくっきりと映像化されている。現在が過去に浸食される、という手法で。
物語の中心は空白だ。ひとりの男の突然の死。それによって喪失感に苛まれる恋人と母親、扮するB・ウィショーとC・ペイペイが互いの立場の違いを巧く際立たせる。
変拍子のミニマル・ミュージックを聴くように身をゆだね、反復の中から次第に浮き上がってくるメランコリックな主題に耳をそばだてる。現在は過去に浸食される。ある種、円環の映画。そしてまた得難い、まどろみのような時間が過ぎてゆくのだった。
「『群盗』がめちゃくちゃ面白い」とコメントしていたのも納得の、いのうえひでのり演出の大活劇ロマン『蒼の乱』。民衆を虐げる朝廷に反旗を翻す“闘うヒロイン”蒼真(天海祐希)と将門小次郎(松山ケンイチ)、反乱軍をオーガナイズしつつ暗躍する常世王(平幹二朗)らが覇権を争う。
凛々しく麗しい天海、舞台2本目とは思えぬ松山の体技の魅力も大きいが、大盗賊・夜叉丸役、早乙女太一(と実弟の早乙女友貴)の立ち回りがやはり一際エキサイティング。ワキ筋の、腹に一物ある者たちも存在感があり、『群盗』を楽しめて、まだ劇団☆新感線、いのうえ歌舞伎、それから「ゲキ×シネ」を未体験の方々は……って、みなまで言わせないで!