略歴: 文筆稼業。1963年東京都生まれ。「キネマ旬報」「月刊スカパー!」「DVD&動画配信でーた」「シネマスクエア」などで執筆中。近著(編著・執筆協力)に、『伝説の映画美術監督たち×種田陽平』(スペースシャワーブックス)、『寅さん語録』(ぴあ)、『冒険監督』(ぱる出版)など。
近況: またもやボチボチと。よろしくお願いいたします。
テクニカルなあのラストシーンは開幕早々、ちゃんと予告されていた。圧巻のオープニングアクトのあと、画面に登場したジャズピアニストはひとり、カーステレオでかけていた音楽を何度も“リバース(巻き戻し)”していたではないか!
で、その曲は、滝廉太郎の「荒城の月」をセロニアス・モンクが独創的にジャズ化した「ジャパニーズ・フォーク・ソング」。つまり、映画全体に脈打つアレンジの作法を、暗に宣言していたのである。
そうして結果、シネフィリーにありがちな自閉の罠に陥らず、タイトロープ、危険な橋を渡り切って“ニュー・クラシック”を確立、とびっきりのハッピーサッドな余韻を、チャゼル監督は造りだしてみせた。
台湾ニューシネマの象徴だった楊徳昌に会ったことがある。95年、『エドワード・ヤンの恋愛時代』を携えて来日したときだ。有名な逸話ではあったが、愛する手塚治虫について熱く語るナマの声にドキドキしつつ耳を傾けた。もうひとりのシンボル、侯孝賢が岩松了さんと対談した際には貴重なお話をまとめる機会を得た。
それは04年、小津映画にオマージュを捧げた『珈琲時光』公開の頃。当ドキュメンタリーではその主演・浅野忠信や是枝裕和、黒沢清といった監督も登場。観ればこんな風に日本とのディープな関係に思いを馳せ、「自分にとっての台湾新電影」を語りなくなるだろう。亡き楊徳昌の“不在”の大きさを改めて噛みしめながら。
バネが効いている。原作に則って、映画はヘタレな主人公を徹底的に追い込んで退路を絶ってゆく。そうしてギリギリまで弦を引き絞り、撓らせ、大きく弾いて“弓矢”を放ち、散弾銃から出る一発一発は観客のカタルシスへとつながっていく(メインの大泉洋、長澤まさみ好演! 有村架純の使い方はある意味、贅沢すぎるが)。
佐藤信介監督はもともと、閉じた空間内の演出で冴えを見せてきたが、今回も「リピートされるロッカーでのシーン」の“溜め”が秀逸。現在、『重版出来!』でも筆が走っている野木亜紀子の的確な脚色も大きい。ヒーローの最後の表情に……「峠の我が家」には戻れぬエレジーも読み取るかどうかはあなた次第。
黄昏れた野原に囲まれた広大なハイウェイが、セルジオ・レオーネの描く西部に見えた。一台のパトカーをパクる悪ガキ2人に、悪徳保安官ケヴィン・ベーコン(笑える。最高!)。これだけ揃えれば面白い映画はできる。ただし監督の腕さえあれば、の話だが。
その新鋭ジョン・ワッツはレオーネばりの“焦らせと引っぱり具合”が堂に入っていて、大したもの。緊張と弛緩のバランスが抜群なのだ。基本設定に登場人物を足していき、たわいもない子供の遊戯が悪夢に飲み込まれていく物語を右へ左へ転がし、しかも90分以内にタイトに仕上げる手練手管=ハンドリングはドン・シーゲルのようでもある。寓話の彼方へと消えていくラストもいい。
広瀬すずは類い稀なる“アクション女優”だ。それも、ひとつひとつのモーションにエモーションを込められる……卓抜な! 彼女を中心に「かるた競技」に挑む弱小チームの心と体が いや、映画自体のグルーヴが、シンクロしていく。つまり彼女の一挙手一投足によって波動が伝わり、空気が動くのだ。その気持ち良さ。
作劇的にはやや漫画チックに傾きすぎるが、有効打が増えていくうちに気にならなくなる。ホント、いいシーンが多いのだ。特に山登りのエピソードで伏線としてあえて隠したカット、勝負が決まったあとのハイスピード撮影で捉えられた広瀬すずのオーバーリアクション2つの切り返し(意表をつく小泉監督のワザ)に感動した。