連載第1回 『或る夜の出来事』(1934年)
名画プレイバック
最近、楽しい映画が見たいと切に思う。現実で胸を塞ぐようなことばかり起きるからだろうか。こんな時に手が伸びるのは時代を経ても色あせない名画。(文・冨永由紀)
数多い傑作の中から、今回はロマンティック・コメディの原点とも言うべき『或る夜の出来事』(1934)を紹介したい。何の接点もなく生きてきた男女が偶然出会い、些細なことでいがみ合いながらも次第に惹かれていき……という王道中の王道作だ。
フランク・キャプラ監督、クラーク・ゲイブルとクローデット・コルベール主演の本作はアカデミー賞の作品賞、監督賞、脚色賞、主演男優賞と主演女優賞という主要5部門を制した最初の作品(ほかに1975年『カッコーの巣の上で』と1991年『羊たちの沈黙』)でもある。
主人公は、銀行家令嬢のわがまま娘・エリー(コルベール)と失業したばかりの新聞記者・ピーター(ゲイブル)。独断でプレイボーイと結婚しようとしたエリーは父親所有のヨットに軟禁されるも、なんと海に飛び込んで泳ぎ着いたマイアミからニューヨーク行きの夜行バスに乗り込む。そこで出くわしたのが、上司からクビを宣告されたばかりのピーターだ。彼女の正体に気づいたピーターはスクープを狙って一緒に旅を続けることに。次々起こるハプニングを切り抜けながら、2人はNYを目指す。新婚夫婦と偽って宿に泊まる時は室内にロープを張って毛布をかけ、「ジェリコの壁」と称して紳士淑女のけじめをつける2人だが、互いに惹かれ合う気持ちは徐々に募り……という物語だ。
『ローマの休日』(1953)や『シュア・シング』(1985)に影響を与えたロマコメにしてロードムービー。80年以上前のモノクロ作品だが、テンポのいい展開とウィットに富んだ会話が楽しく、とにかくチャーミングでハッピーにさせてくれる。生意気だが世間知らずのお嬢様を、さりげなくフォローするピーターのツンデレ系ダンディズム、跳ねっ返りだけど素直なエリーの可愛らしさは、今見ても十分に魅力的。ちなみに劇中ピーターが生のニンジンを齧る姿はバックス・バニーの元ネタだという。
映画作りの教科書的な名シーンもたくさんある。お金がなくなり、ヒッチハイクをしようという時、ピーターはその極意を説いて実践するのだが、彼が親指を立てても1台も停まらない。ところが、エリーがスカートの裾を上げると途端に車が停まる。のちに多くの映画に登場した定番シーンもこれが始まり。そしてもう1つは「ジェリコの壁」という結界だ。旧約聖書に出てくる城壁で、絶対に崩れないものの喩えとして使われる。ここでも壁は簡単に崩れないが、その結界をくぐり抜けてピーターの寝ている側にエリーが顔をのぞかせるその瞬間、ドキッとさせられる。それまでの軽快な運びからガラッと雰囲気が変わる愛の告白シーンで、メリハリの利いた演出だ。
描写の1つ1つに現代との時代差を感じる点はいくらでもある。たとえば、男も女も所構わずタバコを吸いまくっているところとか。反面、人間って本当に変わらないと思わせるのが恋心。一方が歩み寄ると、もう一方はつい意地を張り、すれ違いを繰り返す。もどかしくも微笑ましい有り様はいつの時代も変わらない。自己チューを絵に描いたようなエリーの勘違いぶりはリアリティ番組のお騒がせソーシャライトそのもので、こんなところにも普遍性が。
万事がのんびり牧歌的で、単純な物語。主演2人は気乗りしないまま出演し、コルベールに至ってはオスカー授賞式を欠席して旅行に出かけようとしていたほどだ。しかし、まさにシンプル・イズ・ベスト。エンターテインメントのツボを押さえたフランク・キャプラの鮮やかな手腕は、コメディに厳しいとされるアカデミー賞も制し、映画史に残る名作を誕生させた。