第7回 『野火』への道~塚本晋也の頭の中~
『野火』への道
大岡昇平の原作小説「野火」の映画化を思い立ってから二十数年。塚本晋也監督が遂に夢を実現し、映画『野火』が7月25日に東京・渋谷ユーロスペースほかで全国順次公開されます。劇場映画デビュー作『鉄男 TETSUO』(1989年)から常に独創的かつ挑発的な作品を発表し続けてきた鬼才がなぜ、戦争文学の代表作といわれる「野火」にたどり着いたのか? 製作過程を追いながら、塚本監督の頭の中身を全8回にわたって探っていきます。(取材・文:中山治美)
■『野火』ベネチアへ
2013年末にクランクアップした映画『野火』は、約半年間の編集作業を経て2014年6月に完成した。では、世界初披露の場をどこの国際映画祭にするのか。世界を主戦場としている映画監督にとっては、その後の作品の運命を決めかねない重要事項となる。塚本監督自身、劇場デビュー作『鉄男 TETSUO』(1989)がローマ国際ファンタスティック映画祭でグランプリを受賞したことが国内外の認知度を高め、市場も広がったことが創作活動の可能性を広げている。
照準は、毎年8月下旬からイタリアで開催されているベネチア国際映画祭に定まった。同映画祭はカンヌ、ベルリンと並ぶ世界三大映画祭の一つ。世界最古の歴史を誇り、映画の目利きたちに選出されるだけでも名誉だが、受賞の冠が付けば日本の興行成績をも左右しかねない影響力を持つ。メインのコンペティション部門に応募できるのは、ワールドプレミア(世界初上映)が条件。タイミングも合う。何より、塚本監督と同映画祭は縁が深い。
カンヌやベルリンにはまだ招待されたことはないが、ベネチアは『BULLET BALLET バレット・バレエ』(1998)以降、長編7作品と短編1作品が参加。審査員も、メインコンペティション部門とオリゾンティ部門で2度も務めている。映画祭は自分たちが発掘した監督の成長を見守っていく傾向があり、ベネチアにとっては塚本監督がその対象に値するのだろう。
もっと、映画祭スタッフも毎年入れ替われば、1作1作が真剣勝負であることは変わらない。しかも今回は、塚本監督の映像会社「海獣シアター」による自主製作・自主配給で、スタッフは実質1人。これまで数多くの国際映画祭に参加してきたが、出品申請は配給会社に任せきりで、手続きは初心者。どこから手を付けたらいいかわからなかった。困った塚本監督は直接、映画祭ディレクターのアルベルト・バルベラ氏にメールを送り、申請方法を尋ねた。塚本監督特集を行ったトリノ映画祭の元ディレクターであり、1998年から2002年にも同映画祭ディレクターを務めていたバルベラ氏とは旧知の仲。ディレクターと直接連絡を取れるのは、『鉄男 TETSUO』以降、積極的に国際映画祭に参加し、海外の映画人との人脈を築いてきた塚本監督の強味でもある。
コンペティション部門選出の吉報は、2014年7月11日に届いた。映画祭のラインナップ発表日からさかのぼること、約2週間前の出来事だった。「ベネチア国際映画祭にはこれまで何度も参加していますが、『六月の蛇』(2002)も『KOTOKO』(2011)も、ちょっと前衛的な作品を集めた第2コンペティション部門での上映。メインコンペティション部門に選ばれたのは『鉄男 THE BULLET MAN』(2009)の1回のみ。でも『野火』は、多くの人に観てもらいたい作品だったのでどうしてもメインの方で選んで頂きたかった。なので申請する際、アルベルトに『重要なセクションでお願いしますね』とちょっとしたメッセージを添えてみました。その願い通りになったので、本当に有難いと思いました。アルベルトをはじめとする映画祭側も今、『野火』が製作されたこと、歴史ある映画祭であるべネチアで上映することの意義を考えて選んでくれたのだと受け止めました」(塚本監督)
しかし喜びもつかの間、この日から塚本監督は怒涛(どとう)の日々を送ることとなる。
海外セールス会社の決定。映画祭参加にあたっての国内外のマスコミ対応。映画祭用のポスターやプレスの作成。そして共にベネチアに渡航するキャスト・スタッフの映画祭パス申請や宿泊先の手配。さらに、ベネチアと同時に、続いて出品が決定したカナダ・トロント国際映画祭への参加準備もしなければならない。関係各所との連絡などで1日に対応できるメールのやりとりは限度を超えた。遂に塚本監督の右手は腱鞘(けんしょう)炎になり、関係者への連絡は文章ではなく音声で送られる事態となった。そこで、せめて国内のマスコミ対応については映画記者同士で話し合い、ベネチアと日本とで代表者を一人ずつ決めて取り仕切ることにしたが、塚本監督はすでに満身創痍(そうい)の状態。2014年8月31日に出演者の中村達也、森優作、音楽の石川忠と製作から携わっていたボランティアスタッフ数名と、慌ただしくベネチアへと向かった。多忙のリリー・フランキーは、後乗りとなった。
現地時間9月2日のプレス試写、翌日本時間3日の公式上映共々、満席となった会場は熱狂に包まれた。しかし、彼らの本音は記者会見で、そしてレビューという文章でダイレクトに作品に対して向けられてくる。中でも問題となったのは、映画中盤の戦闘シーン。夜中にジャングルを抜けて移動しようとする日本兵に向けて、待ち伏せしていた相手が一斉に攻撃を仕掛けてくる。腕はもがれ、頭を撃たれた兵士の脳みそは飛び散り、吹き出す血を押さえながら、銃弾から逃れようと右往左往する光景はまさに阿鼻(あび)叫喚の世界。くしくもここは、一度はクランクアップしたものの、編集を進めていくうちに「戦争の残酷さを伝えるためには物足りない」と、2014年5月に追加撮影した場面だ。英国の一般紙「ガーディアン」が「『野火』は、戦争は地獄であることをわれわれに思い起こさせてくれる」と四つ星評価を付ける一方で、米国のVariety誌は「『野火』の音響と衝撃的なビジュアルは、わたしたちに戦争の恐怖を味わわせるために用いられている。だがそれは、戦争ではなく拷問だ」と批判。これはたぶんに、塚本監督が海外で「カルト映画の監督」として認知されているイメージのせいもあるが、「容赦ない残酷で血みどろのホラー映画」(The Hollywood Reporter誌)、「観客にメッセージを伝えるよりも、スプラッターシーンを楽しんでいる」(Variety誌)と捉えた記者も多かった。
記者会見でも、最初に「あなたの映画はしばしば、『過剰な』という形容詞で語られますが、あなたはどのように考えているのですか?」という質問があった。だが、塚本監督は毅然と答えた。「戦争に行ったら、そこで行われることはやりすぎの世界ですので、このくらいの描き方をしても足りないとすら思ってしまいます。戦争では、それまで尊厳を持って生きてきた人たちが、突然殺されて「モノ」となってしまう。映画でも、そういう描写は手加減しないできっちり描いた方が良いと思い、やりすぎとも思える表現をあえて行いました」。
また、これまで“カルト・エンターテインメント”を作ってきた塚本監督が、世相を反映した戦争映画を放ったことに対する戸惑いもあったようだ。しかし塚本監督が「戦後70年を迎えて戦争体験者がいなくなり、その痛みや怖さを知らない人が増えると、戦争をするという動きがだんだん強くなってくる。そうなると、今後、戦争映画はますます作りにくくなるという危機感を抱いて、ボランティアの協力を得てとにかく作り始めました」と説明すると、会場の記者たちから拍手が起こった。これは、その後に参加した韓国・釜山国際映画祭でも見られた光景だったが、戦争の記憶を伝えることの重要性に共感し、かつ実際に行動に移して映画として世に問うた塚本監督に対する賛辞の拍手だろう。
だが、ベネチア国際映画祭では大きな話題を呼んだが受賞には至らなかった。しかし塚本監督は、良くも悪くも作品が人々の心に届いたという手応えを感じていたようだ。「映画祭では、会期中に何百本という作品が上映され、中には記者たちの話題にすらならない作品もあります。でも今回は賛否ありましたけど、記事を読むと記者の皆さんが物すごい熱量で書いてくださったのが伝わってきました。本当にありがたかった」。
こうして塚本監督のベネチア決定から終焉(しゅうえん)までの約2か月に及ぶ目まぐるしい日々は終わった。その感想を、塚本監督は後日、『野火』公式Facebookに次のようにつづった。
「ここまで来ました。皆と手作りで作った映画を大きな場所で上映することができた。そこに至るまで、スタッフキャストはもちろん、実に多くの方々の熱き協力をいただいた。映画を作ってずいぶんになるはずだけど、最初の作品を作ったときのように新鮮な気持ち。こうして重要な場で上映してくださっている感謝と喜び。でもまだまだ、もっとがんばらないと! という強い気持ち。腕をひろげて走りたい気分だ。ありがとうベネチア!ありがとうみなさま!」。
その後、映画『野火』は、2014年11月に開催された第15回東京フィルメックスのオープニング作品に選ばれ、日本で凱旋(がいせん)上映された。そして8月3日現在、招待された映画祭は27に上り、8月にもボスニア・ヘルツェゴビナで開催される第21回サラエボ映画祭で上映される。
映画『野火』は渋谷・ユーロスペース、立川・シネマシティほかにて公開中・全国順次公開
オフィシャルサイト
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