ゴーストライター騒動と佐村河内守、森達也が見た報道の闇
オウム真理教に密着した『A』(1998)や『A2』(2001)で知られるドキュメンタリー作家、森達也が単独の監督作としては15年ぶりとなる新作長編ドキュメンタリー『FAKE』を発表。その題材は、2014年にゴーストライター騒動で世間を騒がせた“現代のベートーベン”こと佐村河内守氏だった。ある意味ゴシップ的な存在に密着取材を試みた真意、そして「佐村河内守」を通して明かされる日本が抱える闇の深さについて森監督が語った。(取材・文:村山章)
いかにして佐村河内氏を口説き落としたのか?
Q:最初に佐村河内守という人に興味を持ったきっかけは何だったんでしょうか?
実は彼のことは全然知りませんでした。週刊文春がスクープし、新垣隆さんが記者会見をやったときに、へえ、こんな人がいたのかと知ったぐらいで。ただ同時期に食品偽装問題も騒がれていて、要するに芝エビかと思って食べていたらバナメイエビでけしからんみたいな。僕は「別においしかったらいいじゃん」というレベルで、ゴーストライター騒動も何でこんなに大騒ぎしてるのかなって感じでした。
Q:では映画にしようと思われた理由は何だったんでしょう?
同じ時期のSTAP細胞騒動も構造は一緒ですよね。さらに言えば朝日新聞の従軍慰安婦にまつわる、騒動といえばいいのか問題といえばいいのか、あのときも全メディアが朝日を売国奴とか反日新聞などと激しくたたきました。朝日が偽造なら自分たちは真実みたいな勢いで。でも(偽証だと大問題になった)「吉田証言」をベースにした記事を掲載していたのは、他のメディアも同様です。それなのに、なぜここまで朝日だけをたたけるんだろうかと違和感がありました。真実と偽りってそんなに簡単に区切れるものじゃないのに、とても安易に二元化されてしまう。こうした二元化をダイコトミーといいます。正義と邪悪、黒か白、これがエスカレートすると敵か味方だけになり、敵をたたけという方向にしかならない。つまり戦争です。嫌な傾向だなと思っていました。
Q:その違和感とゴーストライター騒動が結びついたわけですか?
まあ半分は後付けです。最初は知り合いの編集者から「佐村河内氏に会わないか」と誘われたんです。メディアが言ってることと本人が言ってることはだいぶ違うから、この騒動をテーマにした本を書いてもらえないかと。気乗りはしなかったんですが、熱心に誘われて一回だけ会ってみてもいいかなと2人で彼のマンションに行ったのが最初です。そこで佐村河内さんと奥さんに会って、2時間くらいしゃべって、映画を撮りたいと思いました。
Q:その2時間に一体何があったんですか?
簡単に言っちゃうと画になるんです。彼だけじゃなく、奥さんや猫も、あるいはベランダの外の景色も含めてね。非常にフォトジェニックで、これは活字じゃないな、映像で描くべきだと思ったんです。うまく説明できないんですけど、思わず「あなたを被写体にする映画を撮っていいですか?」って言っちゃった。隣にいた編集者は、きっと茫然としていたと思うけれど。
Q:佐村河内さんは森監督のことを知っていたんでしょうか?
たまたま僕が書いた本を読んでいたと言われました。よりによって「ドキュメンタリーは嘘をつく」。それを読んでいたから、逆に面白いと思ったのかもしれないですね。
Q:映画にすることで、何が見えてくると思われたんでしょうか?
さっきも言いましたが、今の社会では安易に二分化が進んでいる。それが映画のテーマですと言う気はまったくないけれど、僕の中にそういう意識が強まっていたタイミングで佐村河内さんが現れたことは確かです。メディアがそうなった理由は明らかで、皆が「わかりやすさ」を求めるから。つまり市場原理ですね。メディアは社会によって造形されます。ネットでは“マスゴミ”と嘲笑する人が多いけれど、ならば自分をもゴミと罵倒しているわけです。メディアと社会の相互作用で複雑な世界が四捨五入され、整理整頓され、矮小化されてしまう。それはリアルな世界ではない。そういったことを考えながら撮っていたというのはあります。