ゴーストライター騒動と佐村河内守、森達也が見た報道の闇(3/4)
「やらせ」と噂になった外国人記者の取材シーン
Q:『FAKE』にしろ『A』にしろ、森監督が作ってきた作品はあくまで「森監督が何を見て、どう感じたか」についてのドキュメンタリーである、ということですね。
もちろんです。大事なのはそれをどう表出するか。「ドキュメンタリーは嘘をつく」という言葉が独り歩きして、森は仕込みもヤラセも全部OKだと言ってるみたいに解釈されることもありますが、そんなレベルの嘘は論外です。大体撮りながら面白くない。どんな情報や表現も結局は一つの視点であり、見方を変えればフェイクだという意味を含めて言っているつもりです。
Q:外国の記者が佐村河内宅に取材に来る場面がありますね。ゴーストライター騒動にまつわる本質的な疑問をズバズバと整理してくれる役割を果たしていたと思うんですが、あの記者は森監督が連れてきたわけではないんですか?
そういう噂が出ているという話は聞いていますが、ご想像にお任せします。記事はネットで見つけられますよ。ただ、ドキュメンタリーにおける演出はもちろん存在するけれど、そのレベルの仕込みでは撮りながら面白くなくなるので、僕は嫌いです。もしも僕が仕込むのなら、仕込む過程もドキュメンタリーの要素にします。
衝撃の12分に込めたメディアへの挑発
Q:「衝撃の12分間」と呼ばれるあのクライマックスは、監督ご自身がレールを敷かれて生まれたようにも見えますが。
レールねえ……まあ半分は正解。でもどう転ぶかはわからなかったし、どのレベルかはともかく、これ以外に終わらせる方法は思いつけなかった。ただ僕が仕向けたというのは一方的な見方でしかなくて、佐村河内さん自身にそもそも「やってみよう」という意志があった。これがドキュメンタリーの演出です。時には誘導する。時には挑発する。あのラストについては、双方にとってのタイミングがシンクロしたシーンだったとも言えると思います。
Q:ラストでは観客が煙に巻かれるというか、「これは何だったんだ?」と物議を醸すと思います。観客や二元化する社会に対して「かかってこい!」と森監督が挑発しているように感じますが。
困ったな。そんな戦闘的なタイプじゃないです。それでなくとも臆病なのに、観客や社会を挑発だなんてとんでもない。見くびらないでくださいって言いたい……あれ、逆か(笑)。例えばこの映画をメディア批判と見る人もいるかもしれない。でもさっきも言ったように「メディア=社会」ですから。まあその意味では、挑発とかではないけれど、この状態を造形しているのはあなたたち一人一人なんだとの意味は込めているかも。もちろんこの「あなたたち」には、僕自身も入ります。かつてフジテレビの深夜番組で「放送禁止歌 ~歌っているのは誰?規制しているのは誰?~」(1999)というドキュメンタリーを作ったとき、ラストカットは鏡の中の自分にカメラを向けました。テレビを見ている人からするとカメラのレンズが自分を見ているわけです。「歌を放送禁止にしたのは結局誰なのか?」っていう、僕自身も含めての問題提起ですよね。今、自分で言いながら一貫してるなって思いましたけど(笑)。