東日本大震災後の10年、映画の力を信じ続けた人々【特集】(3/4)
映画で何ができるのか
1.映画館のない地域で無料上映会を続けること延べ900回
2.地元テレビ局の責任と使命を問い続ける
3.情報弱者を出さないために…耳のきこえない人たちから見た社会の変化
4.「作品」を通して、震災を語り継ぐ試み
3.情報弱者を出さないために…耳のきこえない人たちから見た社会の変化
今村彩子監督は東日本大震災発生から11日後、自宅のある愛知県から新潟経由で宮城県に入った。以前、ディレクターを務めていた聴覚障がいのある方のための放送局「目で聴くテレビ」から東北取材の要請を受けたからだ。同テレビ局は、1995年の阪神淡路大震災の時に、耳のきこえない人たちが情報弱者になってしまった経験から、全日本ろうあ連盟などが中心となって1998年からCS放送(通信)をスタートした放送局。自宅で震災のニュースを見ながら「あまりにも大規模の災害なので、自分ができることはないと思っていた」という今村監督は、思わぬ依頼に二つ返事で快諾したという。
「まず宮城県視聴覚障害者協会の対策本部に伺い、耳のきこえない人がいる避難所を教えてもらいました。当時、同協会の会員数は979人(うち14人が津波の犠牲になった)。対策本部ではファックスやメールを使って一人一人の安否確認作業を行っていましたが、携帯電話の基地局が被害を受けたことで連絡がつかない。そこで役員が避難所を回って該当者を探したそうです。ガソリンが不足していたので、苦労したと伺いました」(今村監督)
周囲とコミュニケーションが取れない不安
今村監督が向かったのは、宮城県岩沼市の菊地藤吉さん・信子さん夫妻。信子さんは津波を知らせるサイレン音がきこえず、自宅で散乱した部屋を片付けていたところを、車で駆けつけた近所の人に助けられて難を逃れた。しかし自宅は津波で流され、岩沼市総合体育館で避難生活を送っていた。
「わたしが信子さんと同じ耳がきこえないとわかると、信子さんの方から手話で話しかけてきてくれました。やはり避難所で周りの方とコミュニケーションが取れず、不安を抱えていたそうです。わたしだから話せるのだと実感しました。信子さんには自宅があった場所まで案内していただいたのですが、土台しか残っていない家跡を前に涙を流している信子さんの姿を見て“信子さんが安心して暮らせる日が来るまで宮城に通おう”と決意しました」(今村監督)
被災地での耳のきこえない人の現状を制作
以後、今村監督は宮城に通い続け、被災地での耳のきこえない人の現状を伝えるべく、ドキュメンタリー映画『架け橋 ~きこえなかった3.11~』(2013)、『きこえなかったあの日』を制作した。前者は2年4か月に渡る記録を、新作の後者は東日本大震災だけでなく2016年の熊本地震、2018年の西日本豪雨(平成30年7月豪雨)の現地取材も盛り込んだ。
「熊本は、東日本大震災と同じ“目で聴くテレビ”の取材で、広島はインターネットの動画配信用の企画で現地に入りました。毎年どこかで『架け橋 ~きこえなかった3.11~』の上映会が行われ、その度に耳のきこえない人に対する防災対策や各災害の現状をきかれることが多いので、自分が取材に行って得たことを新たに情報共有できればいいと思い、現地に通いました」(今村監督)
震災での教訓が次の災害へと生かされる
『きこえなかったあの日』制作のために映像素材をまとめてみると、東日本大震災の教訓が次の災害へと生かされていることが見てわかる。前述の岩沼市の菊地信子さんのように、耳のきこえない人や難聴者が避難所で孤立したり情報弱者にならないよう、「きこえない・きこえにくい方へ」と題したポスターが貼られ、手話通訳依頼の連絡先も記載されていた。行動を起こしたのは熊本県聴覚障害者情報提供センターのスタッフだ。また西日本豪雨では、「自分たちは、会話はできないけど体は元気」ということで広島県ろうあ連盟がボランティアセンターを立ち上げ、集まったろう・難聴者の有志が被災現場で汗を流した。聴覚障がい者団体が独自でボランティアセンターを設立したのは全国初の試みだったという。2013年には手話は一つの言語であり、その普及と推進に尽力することを定めた手話言語条例が日本で初めて成立し、自治体が行う記者会見で手話通訳が付くように。さらにテレビがデジタル方式となり、文字多重放送も常識となった。
「それらは全日本ろうあ連盟をはじめとする諸先輩たちが長年、国や自治体に働きかけ、社会を変えるための運動をし続けてきたおかげです。10年前、愛知で仕事の打ち合わせをしていたわたしは揺れを感じて地震が起こったことに気づきました。テレビをつけると海が映されていた。地震なのになぜ海なのか? その理由がわかりませんでした。津波で東北が大変なことになっていると知ったのは、自宅に戻った夕方ごろ。わたし自身、情報を得たのは遅かったと思います。それが2月13日の福島県沖地震が起こった時は異なりました。緊急地震速報のメールが携帯電話に入り、テレビのニュース番組を付けたら字幕があっただけでなく、漢字にルビもついていた。10年前には考えられなかったことです。街で買い物をしていた時も、以前はわたしが耳がきこえないとわかると、お店の方が戸惑ってしまうことが多かったのですが、今は身振り手振りや筆談で対応してくださるようになりました。手話言語条例が成立したことで、耳がきこえない人がいるのだという認識が広まったのかなと実感します」(今村監督)
この10年で意識が変わった
今村監督自身も、この10年で意識が変わったという。わたしたちが“耳がきこえない人”とひとくくりで見るように、今村監督も聴者を“きこえる人”とひとくくりで判断し、心を閉ざしていた部分もあったという。その考えを改めさせてくれたのが、映画にも登場する亘理町の加藤えな男さんとの出会いだ。加藤さんは耳がきこえないだけでなく、日本のろう教育が手話を禁じ、口話法を主体としたため日本語の読み書きも難しい。それでも仮設住宅や復興支援住宅で地域住民と言葉を超えた交流を育んでいた。
「その姿を見て、知らぬ間に自分もこうなりたいと思うようになりました。耳がきこえる人・きこえない人ではなく、その人に興味を持ち、互いの顔が見える関係になれば、どんな方法でもコミュニケーションが取れるようになるのだと気づかせてもらいました」(今村監督)
今村監督は今後も宮城で出会った人たちに会いに通い続けたいという。
1.映画館のない地域で無料上映会を続けること延べ900回
2.地元テレビ局の責任と使命を問い続ける
3.情報弱者を出さないために…耳のきこえない人たちから見た社会の変化
4.「作品」を通して、震災を語り継ぐ試み