作品評:『レヴェナント:蘇えりし者』
第88回アカデミー賞
誰しも認める“キャリアの代表作”をモノにした映画監督が、次に肩の力を抜いた小品を手掛けたりするのはよくあることだが、『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』でアカデミー賞4部門(作品、監督、脚本、撮影)を制したアレハンドロ・G・イニャリトゥの場合は、その例に当てはまらなかった。雄大なネイチャー・ドキュメンタリーが何本も撮れそうなカナダとアルゼンチンの大自然のまっただ中で、9か月間に及ぶロケを実施。製作費の多寡ではなく、スクリーンに映し出されるありとあらゆる光景に、観る者を圧倒する大作感がみなぎっている破格のアドベンチャー映画である。(文・高橋諭治)
主人公は19世紀前半のアメリカに実在した猟師で探検家のヒュー・グラスだが、彼の生い立ちを事細かにたどる伝記映画ではない。毛皮ハンターの遠征隊に参加した際、ハイイログマに襲われて瀕死の重傷を負ったグラスが、武器も食料もない状態で森に置き去りにされながらも、単独で砦への生還を果たしたという有名な伝説に焦点を絞っている。
死の淵からの復活を遂げたグラスが、息子を殺害した憎き男への復讐心を生きる力に変えていくストーリーは実にシンプルで、この映画がアカデミー賞脚本賞(もしくは脚色賞)にノミネートされなかった理由もよくわかる。驚かされるのは、それだけ一般的な意味での“ドラマ性”が乏しいにもかかわらず、2時間半超の上映時間をまったく長く感じさせない、とてつもなくパワフルな作品に仕上がっていることだ。この映画の究極的なテーマはグラスが復讐の果てに見出す“魂の救済”だが、イニャリトゥ監督はそれを“ドラマ”や“セリフ”で一切語らず、宗教性や哲学性に偏ることもなく、ひたすら過酷な自然環境を突き進む主人公のサバイバルの軌跡を見せていく。木の実や生の魚を貪るように食い、馬ごと断崖絶壁から転落した直後には、凍死を免れるために内臓を取り出した馬の腹の中にもぐり込む。何かに取り憑かれたかのようなレオナルド・ディカプリオの入魂演技と相まって、生き抜くためにあらゆる手段を尽くすグラスの一挙一動から目が離せない。そうした“生きる”という根源的なテーマと、雪に覆われた極寒の大自然の風景が共鳴し、映画に異様とも言える厳粛な緊張感と詩情を吹き込んでいるのだ。
また、この映画はネット上などで時折“西部劇”と書かれているのを見かけるが、わたしたちに馴染み深い西部劇のイメージとは遠くかけ離れている。本作は多くの西部劇が背景とする南北戦争やゴールドラッシュの時代より以前の1823年、西部開拓初期が舞台であり、勇ましい保安官もガンマンも出てこない。その代わり冒頭には毛皮狩りの遠征隊がネイティブ・アメリカンに襲撃されるシーンがあり、この場面における撮影監督エマニュエル・ルベツキの長回しを駆使したカメラワークが超絶的だ。グラスを含む白人たちは前後左右あちこちから飛んでくる弓矢に傷つき、ほうほうの体で逃げるほかはない。これほどネイティブ・アメリカンが白人を殺害し、その後も執拗に追いつめまくる映画なんて滅多にない。
そんなネイティブ・アメリカンの猛攻描写にひと息ついたのも束の間、前半のうちにもう一つ圧巻の見せ場がやってくる。それは森の中を一人歩いていたグラスが子グマを見かけ、あたりを警戒する間もなく、背後から現れた母親のハイイログマに急襲されるシーンだ。これまで数多くのクマ映画を含むアニマル・パニック映画を観てきた筆者も、この場面には“度肝を抜かれる”レベルを通り過ぎて全身が凍りついた。CGによるクマのリアルさもさることながら、一度目の襲撃ですでに虫の息に陥ったグラスが嫌な間を置いてもう一度猛獣のなぶり者にされるシークエンスを、世にも恐ろしいワンカットで映像化してみせたことの衝撃! 映画表現の革新性はとかく『マトリックス』『アバター』『ゼロ・グラビティ』といったSFジャンルで語られがちだが、このクマの描写が象徴する本作の“プリミティブな革新性”もまた、紛れもなく別次元の映画体験の創造を成し遂げている。
映画『レヴェナント:蘇えりし者』は4月22日公開