略歴: 映画評論家/クリエイティブディレクター●ニッポン放送「八木亜希子LOVE&MELODY」出演●映画.com、シネマトゥデイ、FLIX●「PREMIERE」「STARLOG」等で執筆・執筆、「Dramatic!」編集長、海外TVシリーズ「GALACTICA/ギャラクティカ」DVD企画制作●著書: 「いつかギラギラする日 角川春樹の映画革命」「新潮新書 スター・ウォーズ学」●映像制作: WOWOW「ノンフィクションW 撮影監督ハリー三村のヒロシマ」企画・構成・取材で国際エミー賞(芸術番組部門)、ギャラクシー賞(奨励賞)、民放連最優秀賞(テレビ教養番組部門)受賞
近況: ●「シン・ウルトラマン」劇場パンフ執筆●ほぼ日の學校「ほぼ初めての人のためのウルトラマン学」講師●「るろうに剣心 最終章 The Final/The Beginning」劇場パンフ取材執筆●特別版プログラム「るろうに剣心 X EDITION」取材執筆●「ULTRAMAN ARCHIVES」クリエイティブディレクター●「TSUBURAYA IMAGINATION」編集執筆
弁護士福山雅治が殺人容疑者役所広司と接見を重ね、真実のありかを探る。『羅生門』には証言者の数だけ真実があった。『それでもボクはやってない』では疑わしきは罰せずが成されない裁判への批判があった。本作は、供述を二転三転させる役所の怪演によって、冷徹だが内面は虚ろな福山が翻弄されていく。まるでレクターに対峙したクラリスのように。役所の変転は、所詮真実にはたどり着けない法廷というシステムへのアイロニカルな挑戦だ。被害者家族の会話という福山の知り得ない視点が、テーマを不鮮明にした面もある。それでも、情実などでは到底片付かない、複雑怪奇な人間の所業の深奥へと向かい、高度な倫理的問い掛けは成功している。
黒沢清がSFらしいSFに手を染めた。それも侵略SF。『マーズ・アタック!』や『ゼイリブ』を嬉々として引用しながら、驚嘆の裏にユーモアを潜ませる。彼らは地球人の概念を盗み、人間を熟知してから収奪を完遂しようと企てる。黒沢映画特有の非日常がシネスコ画面を満たすが、これまでのホラー系とは異なる。少なからず社会性を帯びてくるのだ。実は、監視や武力行使を始める国家権力の方が禍々しい。それは防衛を大義名分として“戦前”の気配を醸成する現在と、どこか似ている。とはいえ本作はエンターテインメント性が勝り、長澤まさみ×松田龍平が夫婦関係を修復するラブロマンスという物語の主軸は、ハリウッド市場でも通用しそうだ。
前作『プロメテウス』よりも『エイリアン』第1作要素は加味され、より残虐性が増した。リドリー・スコットは、視覚的に震え上がらせる方法論から転じ、ストーリー上の恐怖を追求する。リプリーを思わせる強きヒロインは登場するが、真の主役は、前作で「誰でも親の死を望むもの」と口走ったアンドロイドのデヴィッド。手掛かりは、フランケンシュタイン博士と怪物の物語。異星人と人間/人間と人造人間/人造人間と異生物を、造物主と被造物の永遠の関係性として捉え直す。スコットのもうひとつの伝説『ブレードランナー』とも通底するが、本能と欲望に忠実で欲望を満たすためだけに生き、情の欠片もない“完全な生命”こそ究極の恐怖だ。
完全無欠の<ウイルス感染パニック×ゾンビ襲撃ホラー×群衆逃走サバイバル>。それだけでは終わらない。迫り来る死を前にした極限下、エゴイスティックな人間どもの本能が露わになり、助かりたい一心で差別が発生する。醜くも悲しい地獄絵。さらに、例えば『ジョーズ』はカナヅチ男が海に挑むドラマでもあったが、ここでは、逃げ惑う中、利己的な父が変心し、子供との愛と絆を再確認するという劇的要素が山場を盛り上げる。そしてヨン・サンホ監督の批評的精神は、明らかに特急列車を資本主義社会のメタファーに見立てている。暴走するゾンビ列車は、急速に発展した社会の成長神話の終焉のようでもある。ゾンビ映画史に新たな1頁が加わった。
若者向けにライトに変換した昨今の時代劇とは異なり、黒澤映画の薫陶を受けつつも現代感覚を採り入れた歴史群像劇の王道として見応え十分。岡田准一は面構えも立ち居振る舞いも、すっかり侍になってきた。しかし義に忠実な漢である岡田三成は、鬼気迫る滝藤賢一=秀吉の前で影が薄く、敵対する老獪な役所広司=家康の前で見るからに呑まれている。最大の難点は、編集の速度がスピーディを超え、雑に感じてしまうこと。『シン・ゴジラ』では表情を記号的に扱い、破局へ向けた切迫感を醸成したが、本作では、せっかくの役者陣の演技を堪能できないというフラストレーションが溜まっていく。編集と録音を修正したVer.でじっくり観てみたい。