略歴: 茨城県出身。スポーツ紙記者を経てフリーの映画ジャーナリストに。全国商工新聞、月刊スカパー!(ぴあ)、時事通信などに執筆中。
近況: 映画祭で国内外を飛び回っているうちに”乗り鉄”であることに気づき、全国商工新聞で「乗りテツおはるの全国漫遊記」を連載。旅ブログ(ちょこっと映画)もぼちぼち書いてます。
オスカーでポン・ジュノ監督がM・スコセッシ監督から学んだ事として引用したこの言葉。本作も、母親が事故で車椅子生活者だった監督の体験に起因するという。その生い立ちが社会を別角度から見る目を養い、生きる意味を問う思考を育んだのだろう。人生の岐路に立っている人たちが希望を見出すまでという普遍的なテーマを真正面から堂々と、緻密かつ丁寧な人間描写で魅せる。特に登場人物たちの心を照らすかのような光や風を意識した映像が美しく、雨傘革命以降、殺伐とした香港に見慣れてしまっただけに新鮮。そこにも本当の香港の姿を記録に留めておきたいという監督個人の思いが込められているようで、胸が熱くなるのだ。
今では貴重となった助監督出身監督の特徴か。三池崇史や白石和彌しかり、武正晴監督も毎作、脇を固める俳優たちへの愛情が深い。結果、彼らの見せ場が増えたことで、騙し・騙されの攻防戦がダイナミックとなり、人情ドラマに厚みが増し、「嘘八百」のわちゃわちゃした世界がより魅力的になった。ただ坂田利夫師匠をはじめサブキャラが多少、演出や脚本から逸脱しても本筋からブレないのは、中井貴一&佐々木蔵之介という芸達者がいてこそ。娯楽を装いつつ、何気に役人の小賢しさをぶっ込んできた脚本家の職人技も光る。
記念映画の華やかさは表面だけで、中身は相当シビアだ。満男はやもおとなり、再会した泉の家庭事情は深刻さを増している。つい寅さんの恋愛劇に目を奪われがちだが、歴代マドンナはリリー(朝丘ルリ子)のように男や仕事に翻弄されながら生きていたり、歌子(吉永小百合)のように父一人を残しての結婚に迷っていたりと、人生の岐路に立たされた人たち。そこにふっと寅さんが現れ、彼女たちの背中を押し、脱力の笑いを届ける。時代を生きる女性たちへの応援歌だったとは今更ながら気付かされた。そりゃ皆、美女たちが寅さんを慕うワケだ。そして挿入されるシリーズの名シーンに確実に笑わされ、改めて秀逸な脚本に脱帽するのであった。
線路上を生活空間に利用している住民を汽笛を鳴らして追い払いながら住宅街をスレスレに走る抜ける貨物列車。その先に広がるのは、壮大なアゼルバイジャンの草原だ。鉄好きならずとも実に魅力的なロケ地で、監督がこの地に惹かれた理由が良く分かる。ただ物語の厚みは無く、短編で十分。それでも、セリフを無くした事で、多国籍キャスト&スタッフの共演を可能にした企画自体は、ボーダレス時代の映画作りの可能性を感じさせてくれて面白い。ドイツ人監督のアゼルバイジャン・ロケ映画に、旧ユーゴスラビア出身俳優が主演し、脇を仏人ドニ・ラヴァンやスペイン女優バス・ヴェガが務めるとは。こんな発想の映画作り、日本で誕生できないものか。
運送業の不当な労働環境を白日のもとにさらしたケン・ローチ監督『家族を想うとき』が話題だが、こちらはリアルだ、さらに非人道的だ。そして、泣き寝入りしない一つの戦い方まで提示している。個人加盟型の労働組合に加入して抗うという手法だ。ただ、本作が記録した3年の戦いは一人の人間の尊厳を破壊する壮絶さで、よくぞ主人公が耐えてくれたと胸を撫で下ろした程。その支えになったのが、傍らで見守り続けた土屋トカチ監督の存在ではなかったか。カメラは時に暴力にもなり得るが、人に生きる力を与える事を物語っている。そして同様に苦境に陥っている人へ一歩踏み出す勇気を--。被写体と撮影者の、共通の願いと覚悟が融合した力作。