略歴: 茨城県出身。スポーツ紙記者を経てフリーの映画ジャーナリストに。全国商工新聞、月刊スカパー!(ぴあ)、時事通信などに執筆中。
近況: 映画祭で国内外を飛び回っているうちに”乗り鉄”であることに気づき、全国商工新聞で「乗りテツおはるの全国漫遊記」を連載。旅ブログ(ちょこっと映画)もぼちぼち書いてます。
東日本大震災から10年を振り返る映像作品は多いが、耳のきこえない人たちに焦点を当てたのは今村彩子監督ならでは。あの災害で得た教訓が、次にどのように生かされたのか? 災害が起こる度に現場に向かい、点ではなく線で追った労作だ。興味深いのは仮設住宅や災害復興住宅で育まれた交流だ。引っ越しを強いられる度にコミュニティが分断されることが懸念されるが、今まで触れ合うことのなかった人たちが軒を連ねたことで新たな絆も生まれたことに一筋の光を見る。同時に浮き彫りになる、口話法が重んじられた日本のろう教育の問題点。これからの10年のために、私たちが知るべきことが本作に詰まってる。
弟のアキ・カウリスマキ監督の日本好きは知られているが、兄は中国と来たか! フィンランドの小さな村の人たちと、上海から来た料理人が食を通じて心を通わせていく。一見、ありがちな設定だが、近年の急激な経済発展で世界各地に中国人観光客が激増し、少なからず文化摩擦も生じた。そうした風潮への監督なりのメッセージだろう。同時にフィンランドをはじめ欧米の人は意外に食に保守的。そんな彼らに医食同源の思想を持つ中国の食文化の豊さを伝えてる。それも本格中華ではなく、現地の食材を使ったフュージョンというのが文化交流をテーマにした本作にぴったり。恐らく監督は相当の食いしん坊。シズル感溢れる料理シーンにそれが表れている。
中国山水画にインスピレーションを得た映像が素晴らしいとか本作を讃える視点は多々あれど、何が魅力的って中身が極めて俗な点。なにせこの一族、終始金で揉めている。借金返済を迫られて吐く小狡い言い訳に金が基準の結婚など。拝金主義と言われる中国の市井の人たちをこれほど正直に描いた映画はあるだろうか。しかも演じているのが、監督の親戚や友人たちだというから笑っちゃう。そこには既存の映画作りへの抵抗もあったのでは? リアルさを追求すれば科学の力で年齢に抗う俳優より、その土地の水を呑み年相応のシワを刻んできた彼らの方が敵役。続編を制作予定らしいが、彼らにはこのままの味を保ち続けて欲しいと願うばかり。
日本映画で描かれる”女性の生きづらさ”に不満だった。決まってその女性は性被害を受けていたり、風俗で働いていたり。劇的で分かりやすく、男性客を惹きつける艶っぽいシーンも挿入できるからに違いない。その古い価値観を刷新する映画が誕生したことに嬉し泣き。性別による”こうあるべき”は職業も階級も出身地も、さらには男女関わらず存在することを淡々と、しかし鋭い視点で描写する。それを体現するのは門脇麦、水原希子、石橋静河という海外の文化を吸収して育った新世代の女優たち。わずかもしれないが日本映画の、いや日本社会の光明を見たり。
筆者のようにモンテッソーリ教育を知らずとも、本作は多くの”気付き”を与えてくれるに違いない。特に私たちは子供と接する時、「子供には無理」とか「子供のくせに」という偏見の言葉と共に彼らの行動を制限しがち。自分が子供だった時、そうやって大人に干渉されるのがイヤだったことをすっかり忘れて。だが本作の先生は、とことん見守る。ここでは子供が火も包丁も陶器も使うが、扱い方は自分で学ぶ。出来なければ、年長者が手助けすることもある。子供の可能性を信じた先にある光景の眩しいこと! モンテッソーリは”平和構築は教育の仕事”と説いたという。その意味を噛み締めながら鑑賞したい。