略歴: 東京の出版社にて、月刊女性誌の映画担当編集者を務めた後、渡米。L.A.をベースに、ハリウッドスターのインタビュー、撮影現場レポート、ハリウッド業界コラムなどを、日本の雑誌、新聞、ウェブサイトに寄稿する映画ジャーナリスト。映画と同じくらい、ヨガと猫を愛する。
イニャリトゥは、今作を「理解しなくていい。感じてほしい」と言っている。ひとつのしっかりしたストーリーがあるわけではなく、現実、妄想、夢などのシーンがつながっていく今作には、それが正しい姿勢だ。これは間違いなくイニャリトゥにとって最もパーソナルかつ野心的な作品。万人向けとは決して言えないが、一方で誰もがそれぞれに共感できる部分を見つけられるはず。主人公のシルベリオ以上に長くL.A.に住んできた筆者は、どちらの国、文化にもきちんと属しておらず、狭間にいるという気持ちに強烈に共感できた。親子の部分に思い入れできる人もいるだろう。とにかくこんな映画を作らせてくれるところはNetflixしかない。
観る人を幸せな気分にさせるというクリスマス映画の基本を強い使命として掲げているのは明らか。「他人に与える」というこのシーズンの精神もしっかり見られる。だが、ストーリーとキャラクターが陳腐すぎ。あまりにお決まりパターンのオンパレードで、今どきよくここまでやれたものだと(そしてよく作らせてもらえたものだと)逆に感心する。こういう映画に完全なリアリティは求めないけれども、これはどこを切ってもありえなすぎ。リンジー・ローハンの映画復帰は素直に祝福。同じ監督とまた組むとのことで、今作では真面目に仕事をしたのだろう。ただ、次も同じレベルの作品だと本格的にキャリアを復活させるのは難しいかも。
オリヴィア・ワイルドの監督第2作目は、前回よりずっと野心的。ミステリアスなことが続々起こって緊張感を高めるのだが、突っ込みどころもあって、“秘密”がわかってからもいろいろ疑問が残る。映画の中に散りばめられたフェミニスト的メッセージも埋もれてしまった。プロダクションデザイン、衣装など、ビジュアルはとても魅力的。「どこかおかしい」という雰囲気を上手い具合に醸し出している。演技も良い。フローレンス・ピューは今回もさすがだし、いつもと違う役に挑むクリス・パインも光る。ハリー・スタイルズも悪くないが、当初の予定通りシャイア・ラブーフだったらどう違っていたかのか、つい想像してしまう。
アイルランドで同性愛が犯罪扱いされなくなったのは1993年。今作の舞台は1995年のアイルランドの田舎で、偏見、差別は根強い。だからこそ主人公エディは、今日のLGBTQ青春ものではあまり見ないほど断固として自分がゲイであることを否定し続けようとする。そこから生まれる強烈なジレンマを、主演のフィオン・オシェイが見事な演技で表現。彼の恋人のふりをするアンバーが少しずつ自分にオープンになっていくのに彼は同じところでとどまったままで、ふたりの関係に影響が出てくるところもリアルかつ切ない。閉塞的な街から出て行きたいという気持ちは、LGBTQ以外の人にも共感できるのでは。最後に胸が熱くなる、素敵な感動作。
ビジネス界のスーパースターは、なぜ窮屈な楽器の箱に入り、日本から逃亡することになったのか。カルロス・ゴーンの人生はまさに数奇で、見直してみるのはそれだけで面白い。とくに新しい知識を得られるというわけではないにしろ、お手伝いさんをはじめ身近な人のコメントはなかなか興味深い。ただ、本人が協力しなかったこともあり、彼の動機や、真実はどうだったのかという部分には突っ込まれていない。また、冒頭から時々、俳優を名乗る女性が出てきて観客に語りかけるのだが、彼女が何者で、なぜ必要だったのかは謎。いずれにせよ、ゴーンについてはおそらく将来、もっと深いドキュメンタリーが製作されることだろう。