略歴: 文筆稼業。1963年東京都生まれ。「キネマ旬報」「月刊スカパー!」「DVD&動画配信でーた」「シネマスクエア」などで執筆中。近著(編著・執筆協力)に、『伝説の映画美術監督たち×種田陽平』(スペースシャワーブックス)、『寅さん語録』(ぴあ)、『冒険監督』(ぱる出版)など。
近況: またもやボチボチと。よろしくお願いいたします。
端的にいえば「世の中はすりばちで、人生はすりこぎ」とシャウトした左とん平師匠の名曲の映画化のような。崖っぷちの、ベテラン役者の苦悩とジタバタの日々……そこに目を付けたイニャリトゥ監督に「今どき、フェリーニの『81/2』をやる?」とツッコミつつ、自意識を可視化したバードマンほか分かりやすく現代批評を織り交ぜた今回の作風はウェルカムで、哀愁のブルースをシニカル(ドタバタ)コメディに巧みに転換してみせている。
相手に不幸な身の上話をし、同情させといて「嘘だぴょーん、俺にだってこれくらいの芝居出来るわ!」とM・キートンが逆切れするところ最高。で、ラストは、スピッツの「空も飛べるはず」で劇終である。
田村隆一は言った。「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」と。その詩『帰途』の中で。さまよえる魂、ポーランドの現代史に翻弄されたヒロインの気持ちもおそらくそうだったのではないか。つまり猛烈な反語。言葉を憎み、しかしどこまでもそれを愛している。
純粋無垢な才能に打たれて、彼女の言葉をポーランド語に翻訳した詩人フィツォフスキは、詩をつぎのように定義する。「詩とは、昨日感じたことを明日思い出させてくれるもの」。だがジプシーであるパプーシャの姿勢はこうだ。「詩を書いたことなど一度もない」。なぜか? 両者のあいだの、埋めがたい距離、それを明らかにするのがこの映画の存在意義(のひとつ)なのであった。
今さらながら「ジヌ」なんである。すまん。でも(たぶん)誰も言っていないので指摘する。これ、いがらしみきお原作ベースの、D・リンチ的(というか『ツイン・ピークス』的)な「松尾スズキ映画」でしょ。で、リンチはM・ブルックスにそのルックスを「火星から来たJ・スチュアート」と喩えられたけれど、松田龍平扮する人の良すぎる(反面、人をナメてる)主人公は、「松尾スズキが演出したジミー・スチュアート」って感じ。
おまけに阿部サダヲを筆頭とする「大人計画」の面々、片桐はいり、松たか子、二階堂ふみ、そして西田敏行らは唐十郎言うところの“特権的肉体”をいつもより際立たせている! さてこの見立て、いかがだろうか?
思い起こせばB・スティラー扮する深夜警備員ラリーは最初、1作目でセオドア・“テディ”・ルーズベルトのことを「第4代大統領」と間違えていた。そのラリーもシリーズ3作を通して精神的成長を遂げた。導いたのはそう、“テディ”。彼は『ナイト ミュージアム』の世界観の羅針盤であり、一貫してラリーの父親的存在だった。そして、演じたR・ウィリアムズもまた。当シリーズの監督S・レヴィが以前、(本作にカメオ出演したH・ジャックマン主演の父子物)『リアル・スティール』を撮っているのは偶然か。闇の中でしか命の宿らぬ“夜の博物館”は映画そのものの暗喩、と捉えると名優2人に捧げられたラストの献辞もいっそう心に沁み入る。
天才物理学者ホーキング博士。彼は、その研究でもって誰もができないことを成し得た。が、誰もが容易にやれることができなかった。スピーチ会場で、目の前の聴衆が落とした一本のペンを拾ってあげられない無念さ。深い深い悔しさ。人生は不条理だ。すべてを包み込んでいる宇宙も。しかしそこに、彼は挑んだ。論理のチカラで。宇宙の起源は人間の起源。万物は(そして人間は、愛は……)どこからやってきて、どこへと去っていくのか――こうした答えの出ない謎、“問いの渦巻き”を本作は、劇中のバリエーション豊かな「円運動」で象徴してみせる。始めも終わりもない、螺旋のイメージを味わうこと。それは、映画のラストまで徹底している。