略歴: 文筆稼業。1963年東京都生まれ。「キネマ旬報」「月刊スカパー!」「DVD&動画配信でーた」「シネマスクエア」などで執筆中。近著(編著・執筆協力)に、『伝説の映画美術監督たち×種田陽平』(スペースシャワーブックス)、『寅さん語録』(ぴあ)、『冒険監督』(ぱる出版)など。
近況: またもやボチボチと。よろしくお願いいたします。
ヒトラーの爆破指令を受け、パリの命運握るドイツの将軍と、それを翻意させようとする中立国スウェーデンの総領事、一夜の対話劇。ヒット&アウェイからインファイトへと持ち込む“言葉のボクシング戦”だが、会話が途切れ、二人の間に沈黙が流れる瞬間もスリリングだ。つまり、総領事が部屋を出されるか留まるかが、この“試合”の最大のポイントとなる。シュレンドルフ監督の演出はやや平板なところも見受けられるものの、外交(←これが原題)とは決してキレイごとではないという、苦いリアリズムも含んだ一編で、また、食べ物が人物キャラを伝え、作劇を巧みに転がす“フード理論”に沿って眺めても面白い(本作では口に入る薬も!)。
我々はなぜ、つい検索……ググったりヤフったりしてしまうのか? 人生とは膨大なデータベースの集積だ。データの中から自分に必要な物事を探しだすため、と、一応は答えることができる。では(コンピュータ誕生前の)数学者A・チューリングの場合は? 彼の恐るべき頭脳は天下分け目の戦争時、敵の暗号解読に挑んで連合軍を勝利に導いた。が、戦後、結果それはイギリスの最高国家機密となった。この映画はその謎のひとつひとつをググりヤフるように描いてゆく。そして日々、何かと“検索”しなくては生きてはいけない我々と、“歴史との連続性”を教えてくれる。チューリングが強いられた「イミテーション・ゲーム」の哀しみと切なさと共に。
時をかけるイーサン・ホーク。いや、閉じた“時の環”の中を行き来し、ウロボロスの蛇となるタイムトラベラーの憂鬱。「俺は俺のおじいちゃん」と歌う、ロンゾ・アンド・オスカーのシニカルな「I'M MY OWN GRANDPA」をジュークボックスから流す周到なたくらみ! 双子監督による才気を楽しめる。が、重要であることは分かっていても、やや前半の会話劇がタルいか。その分後半はサービス過剰、加速がついて勢い余ってもう怒濤の展開なのだが。この冒険的な映画化の立役者、セーラ・スヌーク嬢のルックスが若い頃の倍賞千恵子とダブったのは、誰かが時を超えてやって来てボクに刷り込んだせいだろう……きっとそうに違いない。
マイアミを起点に、自分の失態から離れざるを得なかったロサンゼルスを目指す料理人の“復活の旅”。フードトラックと一心同体となった製作、監督、脚本、そして主演J・ファブローのインディー魂にグッときつつ、本作がロードムービースタイルをとりながら、「融合」を主題にしていることに気づく。(食)文化然り、音楽然り、親と子の関係然り。例えばキューバサンドイッチは、フロリダに渡ったキューバ移民が葉巻工場を興し、手軽なランチとして口にしていたものが広がったのだった。旅の合間に紹介される代表的なソウルフードも、実は文化的ミクスチャーの賜物。SNSの物語への絡ませ方も含めてこれは、極めて現代的な映画だと思う。
導入は快調だった。自動車教習所の教官が、助手席に乗せた初対面の教習生(実は強盗のプロ)に騙され、あっという間に共謀者に仕立てられてしまう。教官は元チャンピオン・レーサーで、その腕を見込んでの計画的犯行。ストーリー運び同様、カット割りの手際の良さに期待が膨らむ。ハンドルを握るT・ジェーン。助手席にJ・キューザック。組み合わせも悪くない。が、しかしカーチェイスは以後不発、助手席側が主導権を握り、相手の人生をナビするアイロニーも弾けず、バディ・ムービーとしてはもの足りなさが。活劇の血は沸騰することなく、車内のトークもゆるゆる。まあ、このような小品に、目くじらを立てるのはオトナ気ないのだけれども。