略歴: 文筆稼業。1963年東京都生まれ。「キネマ旬報」「月刊スカパー!」「DVD&動画配信でーた」「シネマスクエア」などで執筆中。近著(編著・執筆協力)に、『伝説の映画美術監督たち×種田陽平』(スペースシャワーブックス)、『寅さん語録』(ぴあ)、『冒険監督』(ぱる出版)など。
近況: またもやボチボチと。よろしくお願いいたします。
ムーブオーバーしていたが、ついに東京での上映があと一週間を切ったのでプッシュ! といっても後だしもいいところなのであまり語られない高原監督の観点から。かつてシナリオを担当、’03年度ピンク大賞作品賞、脚本賞を得た上野俊哉監督『猥褻ネット集団 いかせて!!』(シナリオタイトル「曖昧」)は、ネット集団心中をテーマに生と死の境界を描いていた。
(筆者も知人だった)上野監督は’13年、病気で早世。本作はレスラー・安川惡斗、女優・安川結花、本名・安川祐香が彼岸に渡らずこちら側に残り、全てをさらけだす姿に高原監督はカメラを向けた。実は筆者も昨年病気で死にかけた身。此岸で闘う者への監督の声が聴こえた。
本作の主人公は、かの座頭市と並ぶ異能のヒーローである。見聞をもとに子母澤寛が書いた掌編を膨らませ、勝新太郎の“市”が生まれたようにこの映画にもモデル、ベン・アンダーウッドがいる。自分の発した舌打ちの反響音で人や物の位置、形を判別し、白杖に頼らぬ行動を可能にした盲人だ。
構成もヒーロー映画的であり、さすらい人として登場し、“市”の居合い抜きもかくやのワザを披露、数々の障壁と格闘することに。リスボンの街並み、いや、世界を音を通してフェティッシュに切り取り、カメラが超俯瞰になってからは神展開! ラストは『アラビアのロレンス』の名高いドリーミーな奇観を彷彿とさせ、口から感嘆符が飛び出した。
ここぞという場面での感情の吐露も見事だが、一見無表情、実は複雑な“中間表情”も卓抜。W主演の二人についてである。“よそ者”として排他的な村に赴任した警察署長ぺ・ドゥナ。そもそも誰からも愛されていない“疎外者”の少女キム・セロン。この“エイリアン”たちが運命の遭遇を果たし、自分の居場所を獲得するため、闘争する。
……いや、ちょっと飾って書きすぎたか? 二人はまるで“罰ゲーム”に陥れられたように不幸のつるべ打ちによって追い詰められてゆくのだ。そのゲスくてヤバい、しかし、確かな抒情で包みこまれた2時間。『影の車』『鬼畜』『震える舌』といった、野村芳太郎監督の手による“子供の受難劇”を思いだした。
イッツ・ア・ジジイ・パーティー! しかも日活育ち(藤竜也、中尾彬、小野寺昭)が多いからか、遊戯者が集うかつての日活ニューアクションの匂いを嗅いだ。といっても北野武はそんな映画史など意識するわけはなく、飲み込みやすいものを求める時流への「これでもくらえ!」的開き直りと、笑いのプロとしての矜持をアンバランスに共存させているのだが。
フルスロットルでハッちゃけた挙句、最終的に何の反省もしていないジジイたち。そこが北野映画的。ただし、敵の若造どもはもっと凶暴でもよかった。その昔出したCD『Carnaval -饗宴』の惹句は「職業=ダンディ」。いつでも要求に応えきる藤竜也の“懐の深さ”に乾杯だ。
才能と努力をめぐる一考察であり一大活劇だ。TVブロス誌で敢行、「D・チャゼル監督インタビュー」で確認したのだが、本作のクライマックスには劇中で目配せされているフィルム・ノワールの傑作『男の争い』が影響を。誇張と戯画化の作劇スタイル、受け手の経験値が反映するオープンエンディングは、製作総指揮としてチャゼル監督の背中を後押ししたJ・ライトマンの映画にも通ずる。
強権独裁をふるう鬼教官以上に常軌を逸しているのは実は若きドラマーで、“敵対”する二人は古典的な弁証法的関係を通じて(悪意を)競いあい、次第に融合していき、そうして主人公の怪物性が開花してゆく。これは「モンスター映画」の変種なのである。