略歴: 文筆稼業。1963年東京都生まれ。「キネマ旬報」「月刊スカパー!」「DVD&動画配信でーた」「シネマスクエア」などで執筆中。近著(編著・執筆協力)に、『伝説の映画美術監督たち×種田陽平』(スペースシャワーブックス)、『寅さん語録』(ぴあ)、『冒険監督』(ぱる出版)など。
近況: またもやボチボチと。よろしくお願いいたします。
人はついつい先入観を持つ。ここでまた、「クライマックスはインド三大祭りのひとつ、“ドゥルガー・プージャー”のエキサイティングな祝祭空間で、それは単なるローカリズムではなく本質的なテーマを宿している」などと記すと余計な先入観を与えてしまうのでは……と構えてしまう。でもきっと大丈夫。この映画、ミスディレクションと広げに広げた“大風呂敷”の畳み方にワザがあり、「先入観を持った自分ごと」、最後はひっくり返されるのが心地よいのだ。キーとなる危険人物の名は“ミラン・ダムジ”。その語感がイカしてる。脳裏に引っかかって、心の中にぶらさがる。あの“カイザー・ソゼ”という魅惑の響きを初めて耳にした時のように。
世界の片隅で“ホーム・アローン”となっちまった男の悲喜劇。だから友人として『ホーム・アローン』シリーズのガキ大将、バズ兄ちゃんのデヴィン・ラトレイが出てくるわけだな……ってチト強引か? 男はあれよあれよと復讐という名の“因果鉄道”に乗ってしまうのだが、それにしても銃器オタク役のラトレイ、敵対するホワイトトラッシュな一家の面々など、登場するのは特殊漫画家・根本敬先生が好んで描くところの「イイ顔」した人たちばかり。で、主人公だけがヤバくなく、坊ちゃん顔。よい組み合わせだ! ジャンル映画をよく知ってるからこそ、その道の裏をかくのが巧い。監督・脚本・撮影ジェレミー・ソルニエの名は覚えておいて損なし。
息子が遺した数々の楽曲と相対し、無謀にもギター1本でそれを唄い継ごうとしている父親……のシンプルなストーリーかと思いきや、絵画でいえばトリックアート的な趣向が施されており、エンディングを迎えるともう一回冒頭から観たくなる。不意の“映画の告白”は、痛く、苦く、「彼は一体これまで、どんな心境で唄っていたのだろうか」と黙考させる。初監督のウィリアム・H・メイシー、やりおりますな~。オリジナルでつくられた曲と、ひとつひとつに命を与えたB・クラダップ、A・イェルチン、ナイスパフォーマンス! “下地”がしっかりしているので、「核心の部分」が平面から立ち上がってくるように見えるのだ。
映画監督もスナイパーも、shootingに失敗は許されない。というのは建前で、実際には的を外してしまうこともあるだろう。終盤、毎度のごとく、イーストウッド監督は強調/転調したい場面でスローモーションを用いているのだが、これには最初、違和感があった。が! そのスローモーションで描かれた時間が、“軍人クリス・カイル”の最後の絶頂で、また「内なる戦争」へと転調してゆく導入剤にもなっており、会得した。国外では自分の影のような狙撃手に襲われ、帰国しても(無数にいる)己の分身と向き合わざるを得ない兵士のもがき。羊を狼から守る番犬になろうとしてドッペルゲンガーに蝕まれていく男の、人間の、普遍的な物語。
深い闇の奥へ、奥へと絡めとられてゆく雑誌記者。言うなれば、暴君カーツ大佐を仕留めようとし、平衡感覚を失っていくウィラード大尉の“旅”を描いたあの『地獄の黙示録』みたいな映画。「獄中の死刑囚の告白」という厄介な物件に顔を突っ込み、そのウラ取りに血道を上げていくうちに、世の裏も表も反り返ってグッチャグチャになるわけである。
充実のキャストで白熱の“人間ドキュメント”を映しだした白石和彌監督。この力ワザは大いに称えられるべき。むろん、各スタッフ陣も(とりわけ、映画のもうひとりの主人公たる“荒涼とした風景”を現出させてみせたベテラン美術監督・今村力の仕事ぶり!)。
単なる事件の再現に終わらず、その語り口、場面構成はかなり大胆だ。パズルのピースを行儀よく並べるのではなく、記者がピースを手にとり、繋ごうと試行錯誤するときに脳内に流れるシナプスの感触を“画”にしようとしているのだ。野郎どもの禍々しいコントの底部に確かなベース音を響かせる女性たちのドラマにも注目したい。結果、凄惨な入り口からは想像もしなかった出口へ──と観る者は拉致られるのだが、この飛躍力こそが映画(の醍醐味のひとつ)だと思う。