パプーシャの黒い瞳 (2013):映画短評
パプーシャの黒い瞳 (2013)ライター3人の平均評価: 3.7
文字を持たない民族、文字では触れえない世界の深度
田村隆一は言った。「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」と。その詩『帰途』の中で。さまよえる魂、ポーランドの現代史に翻弄されたヒロインの気持ちもおそらくそうだったのではないか。つまり猛烈な反語。言葉を憎み、しかしどこまでもそれを愛している。
純粋無垢な才能に打たれて、彼女の言葉をポーランド語に翻訳した詩人フィツォフスキは、詩をつぎのように定義する。「詩とは、昨日感じたことを明日思い出させてくれるもの」。だがジプシーであるパプーシャの姿勢はこうだ。「詩を書いたことなど一度もない」。なぜか? 両者のあいだの、埋めがたい距離、それを明らかにするのがこの映画の存在意義(のひとつ)なのであった。
美しい詩を書いた女性はなぜ迫害されたのか
ユダヤ迫害を扱った『イーダ』に対し、こちらはジプシーを描く。といってもクストリッツァやガトリフのジプシー映画のような人懐っこい抒情は全くない。かつてのポーランド派の再来と呼びたくなる硬質のモノクローム映像で“負の歴史”を丹念に掘ろうとする。
ヒロインは、詩人として評価されたことでジプシーのコミュニティから疎外されてしまった実在の女性だ。民族の尊厳と、同調圧力の表裏一体。またローカルな文化を外部に向けて記述し、伝達することの難しさも関わってくる。
独力で知性と感性を開花させながら、「読み書きさえ覚えなきゃ幸せだった」と嘆くパプーシャ。寓話的タッチの中に込められた問題提起は、射程が長く鋭い。
映像が彼女の詩そのものになろうとする
このモノクロ映像は、黒が濃い。黒の強さは、中世の銅版画を連想させる。主人公であるジプシー初の女性詩人が「父なる森よ 大いなる森よ」と呼びかけるその森は、黒く、深い。それが主人公の瞳の黒さと呼応する。
そして、森は大きい。画面の中でいつも自然は大きく、人々はごく小さく、顔も判別できない。夜の森の中で、人々が火を燃やして取り囲む情景は何度もあるが、常に森は大きく、火は小さく、人々も小さい。物語の時代は第二次世界大戦前後なのだが、映し出される風景はまるで中世の農民画のようだ。
映画には、主人公が書いた詩自体はごくわずかしか登場しないが、その代わりに、映像が彼女の詩そのものになろうとする。