ゲッベルスと私 (2016):映画短評
ゲッベルスと私 (2016)ライター2人の平均評価: 5
言葉に重みを与えた巨匠スピルバーグの功績
激動の時代を、一人の女性の証言から読み解くこの手法は、王兵監督『鳳鳴-中国の記憶』を彷彿とさせる。
だが白黒映像が撮影当時103歳だった女性のシワを際立たせ、言葉以上に、彼女が背負ってきた苦悩を浮かび上がらせる。
そこに挿入されるのは、記録映像という彼女が封印していたであろう過去。
その出典先の多くはスティーブン・スピルバーグ・フィルム&ビデオ・アーカイブだ。
思わぬ所で巨匠のライフワークに触れ、その執念に心揺さぶられずにはいられない。
ともすれば記録映像は女性への糾弾とも受け取れるが、根底にある思いは一緒だろう。
人類の過ち記録し、伝えていくことの責務。
これを生かすも殺すも我々次第。
ナチス中枢にいた秘書の証言「私に罪はない」が私達を覚醒させる
モノクロ映像に刻まれた103歳の老女の皺が多くを語り、インサートされる戦時下ドイツの初公開記録映像が、その証言を深く考察させる。証言者は、ヒトラーの右腕として時代を牽引した宣伝相ゲッベルスの元秘書。よりよい暮らしを求めてナチスへ入党した女性の戦争責任を追及する目的はないが、ホロコーストについて「知らなかった」「私に罪はない」という言葉からは、アイヒマンと立場は違えども、もうひとつの“悪の凡庸さ”という視点が立ち上がる。信念や批判力を失った普通の人々の無自覚や無責任の総体こそが悪の本質であると自覚させ、戦争へ突き進み蛮行が行われる上で、改めて生活者の態度を問い、覚醒させる力がある作品だ。