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『時かけ』『ねらわれた学園』…80年代を駆け抜けたアイドルたち 大林宣彦監督の名語録満載!

今週のクローズアップ

角川映画

角川映画誕生40周年を記念して代表作48本が上映される角川映画祭で、角川映画の顔とも言うべき大林宣彦監督の6作品が上映される。大ヒット作『時をかける少女』(1983)、『ねらわれた学園』(1981)で原田知世薬師丸ひろ子をアイドルとしてブレイクさせ、後年の日本映画に多大な影響を与えた大林監督が、時代を超えて愛され続ける1980年代のアイドル映画の魅力を語った(数字は配給調べ)。(取材・構成・文:編集部 石井百合子)

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角川アイドル映画の始まりは『ねらわれた学園』

ねらわれた学園
『ねらわれた学園』でアイドルとしてブレイクした薬師丸ひろ子 (C)KADOKAWA1981

 眉村卓のSF小説を薬師丸ひろ子主演で実写化した『ねらわれた学園』は、高倉健と共演したスクリーンデビュー作『野性の証明』(1978)で注目を浴びた薬師丸がアイドルとしてブレイクするきっかけとなった作品。超能力で学園を支配しようとする転校生、そして世界を征服しようとする謎の男に、突如超能力が覚醒したヒロインが立ち向かう物語で、薬師丸はセーラー服、着物、ネグリジェなどバリエーション豊かなコスチュームをまとって、多彩な表情を見せている。本作は約12億6,700万円の大ヒットを記録し、その後テレビドラマ、アニメなど度々映像化されることとなったが、大林監督いわく誕生のきっかけは映画がビジネスに結びつかない状況下で生み出した角川春樹プロデューサーの「ハリウッドのプログラムピクチュアを取り込んではどうか」という、いちかばちかのアイデアだったという。

ねらわれた学園
大林作品の常連となった高柳良一(左)(C)KADOKAWA1981

 「日本映画は当時とても寂しかったんです。黒澤明さんもお金がかかりすぎて映画を作れない。一方で、黒木和雄さんのようなアート映画も商売にならないと映画を作れなかった。そこで春樹さんはハリウッド映画が大好きな世代なのもあって、観れば楽しいけどすぐ忘れてしまうようなプログラムピクチュアをやってはどうか、アイドルがいればプログラムピクチュアはできると。当時、薬師丸ひろ子ちゃんは角川映画の大作の『女優』だったんです。すぐれた少女女優でしたが、今一つブレイクし切れなかったところに春樹さんから『大林さん、ひろ子をアイドルにできませんか?』と言われたんです。そうして撮ることになったわけですが、これはひたすらワッペンのようにひろ子ちゃんのかわいい顔が出てきて、あとは訳の分からない映像でめくるめくアイドル映画というつもりで作りました」

ねらわれた学園
『ねらわれた学園』チラシ (C)KADOKAWA1981

 当時、評論家筋からは全く評価されなかった一方で、若い世代には支持され、全国のキャンペーンを通じて瞬く間に人気が出て来た。 「当時は唾をはきかけられるような映画でした。だけど、なぜか若い子はついてきてくれたんですよね。と同時に、六大都市をキャンペーンでまわりましたから、行く先々で日ごとに人が増えて、駅のホームまで人であふれかえるようになって、ひろ子ちゃん目当てのお客さんが増えていったんです」

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アイドルと女優はどう違う?

 『ねらわれた学園』を「薬師丸ひろ子のアイドル映画」とする大林監督だが、そもそも女優とアイドルにはどんな違いがあるのか? 「女優は化けるもの高峰秀子さんも原節子さんも、100本以上の出演作がありますが、同じメイクで出た映画は一本もありません。映画に出るたびに、その役に合わせてメイクをするし、時には歯も抜くし、体重を10キロ減らしたり増やしたり、つまり自分ではない人の人生を生きるのが女優です。一方、アイドルは、本人のままで出るもの。だからいい悪いでなく、まったく役割が違うんです」

大林宣彦監督
取材に応じた大林宣彦監督

 薬師丸がアイドルから女優に変化した一方で、「知世ちゃんはアイドルでも女優でもなかった」と大林監督は当時を振り返る。 「角川のアイドル映画プロジェクトのオーディションで渡辺典子ちゃんが選ばれた。(『伊賀忍法帖』(1982)の)真田広之くんの相手役でね。そのときに一緒にいたのが知世ちゃんで当時13歳。春樹さんの心に留まるものがあって、芸能界入りしてテレビドラマに出たけど、男はショーケン(萩原健一)に代表されるようにツッパリ少年少女の時代だったんですよ。当時の若い子は正面を向いて話さない。肩を寄せ合って夕陽を見ているような横並び世代で、森田芳光くんはそこに着目して『家族ゲーム』(1983)を横並びで撮っていますよね。ところが知世ちゃんは向かい合って相手の目を見て話さないとダメな子なんですよ。それだと当時は映画にならないから、引退の話が出て来たときに、春樹さんが『一本だけ彼女の主演映画を撮ってやってくれませんか』と。そのとき春樹さんの希望が二つあって、一つは『時をかける少女』の題名で撮ってほしい、もう一つは尾道で撮ってほしいということでした」

 『転校生』(1982)に続いて大林監督が故郷である尾道で撮り上げた『時をかける少女』は、原田の代表作となり、2000年代になってもアレンジしたアニメや実写映画が作られるほどの名作となった。

>次ページは、『時をかける少女』原田知世ブレイク秘話

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