ハリウッド、女性搾取のセクハラ構造を伝えた二大女優
名画プレイバック
ハーヴェイ・ワインスタインのセクハラ・パワハラ騒動が世界を震撼させている。今年のエミー賞では女性がフィーチャーされたのは、時代が一歩進んだようにも思えるが、まだまだこんなことが行われていたのかとショックを受けている人も業界内外に多いはず。一方で、「ハリウッドは昔からこうだった」と言われるけれど、何が変わって、何が変わっていないのか? 往年の銀幕スター、ジョーン・クロフォードとベティ・デイヴィスの確執を題材に、ハリウッドのセクシズムに切り込んだ秀作ドラマ「フュード/確執 ベティvsジョーン」(厳選!ハマる海外ドラマ レビュー参照のこと)が描く1950年代~1960年代の女優たちのあり方を振り返りながら、今なお続く悪しき慣習であるセクシズムやエイジズムについて考えてみたいと思います。(構成・文/今祥枝)
山縣:「フュード/確執」を見て、ああ、1950年代から現在に至るまで、ハリウッドはちっとも変わっていないんだなと思っていたら、ワインスタインのセクハラ・パワハラの実態が発覚。まさに過去を描いて今を映した作品だなと。
今:ドラマでも稀代の悪代官として描かれるワーナー・ブラザース・スタジオのオーナーでプロデューサーのジャック・ワーナーの俳優や監督を人とも思っていない傲慢さ、横暴ぶりなんて、まさにワインスタインかと思わせるものがありますね。ハリウッドの頂点に君臨し、女優たちと関係を持つことは当然の自分の権利であるといった感じで、口を開けば誰々と寝たかとかそんな話ばかり。
山縣:どんな映画に出るかも何の役かもわからずとも出演本数で契約を交わす。何の役なのか現場に行くまでわからなかったとしても出なきゃいけないというスタジオシステムは、1950年代後半には崩壊しつつあったわけだけど、スタジオのトップが王様といった意識は厳然として残っていた。圧倒的な男性社会のハリウッドでは、スタジオの大物と関係を持ち、気に入られれば役がもらえるというスタジオシステムの悪しき慣習に、もしも疑問を持ったり異を唱えたりしたら「使いづらい人」「厄介な女優」というレッテルを張られて抹殺される可能性もある。
今:この手の話では必ず女性の側にも非があると責める人がいるけれど、そうしなければやっていけない状況の人を作り出してしまう社会の構造と、それを作ったのは男性で、その社会の頂点にいるのもまた男性であるという点を理解しないといけないですよね。
山縣:金と権力、政治も味方に付けて、女性の力を剥奪してしまうような人が、「フュード/確執」で言えばワーナーなどハリウッドを動かすスタジオのボスだった。奴隷制のようなもので女優は搾取される存在。女性に人格なんてなかったんだろうなって。
今:まさに女性の人権の問題、フェミニズムですよね。ワインスタインを告発している女優だけでなく、これまでにもハリウッドで「自分が人間じゃなく“物”のように感じた」と語っている女優は少なくない。
山縣:そうやって男性社会に迎合を強いられた状況下で、肉体も魂もボロボロになるほど薬や酒に溺れて人生を踏みはずす人も多いんだと思う。子役から活躍していたジュディ・ガーランドやシャーリー・テンプルなんかも本当に悲惨だと思うし、今でも声を上げることができないでいる人たちは元子役や男性でもたくさんいるはず。「フュード/確執」では美に執着するクロフォードのグロテスクな描写が多かったけれど、あれほど美貌に気を使いながらもウォッカを浴びるほど飲んでいるしタバコもスパスパ。子供を虐待したとか犬を溺愛したりと、何かに依存しなければやっていけなかったんだろうなと思うと本当に悲しい。
今:ドラマで描かれる『何がジェーンに起ったか?』(1962年)(名画プレイバック レビュー参照のこと)が映画化された経緯には諸説あるので、必ずしもドラマの通りではないけれど、犬猿の仲だったデイヴィスとクロフォードが女優の地位向上の第一歩を踏み出した、気骨のある女性たちであることは間違いないですよね。この時代にドラマにも出てきますが、オリヴィア・デ・ハヴィランドやキャサリン・ヘプバーンなど、スタジオシステムと闘った女優たちは本当にタフだなあと。クロフォードもクレジットはないですが、『突然の恐怖』(1952年)や『光は愛とともに』(1957年)などでプロデューサー業に意欲的だった。一方で女を使うことをやめなかった。
山縣:クロフォードも根性はあるんだけど、男性のご機嫌を取るべしという考え方を変えることができなかった。1970年代になるとウーマンリブが台頭してくるわけだけど、クロフォードは時代の変化について行けなかったんだと思う。ロールモデルもいなかったんだろうしね。
今:女が生意気なことを言うなという世界は、今でもそこら中に蔓延していますよね。個人的なことで言えば、私はいつも自分のように意見をはっきり言う女は、男性から「生意気で可愛げがないと嫌われる」ことを自覚し受け入れてきました。一方で、同性からの「波風立てず、受け流すことができない賢くない女性」という視線も辛かった。男性が作り上げた社会の中で生きていくための処世術として、まるで女性のDNAにそうした感覚が組み込まれているような。
山縣:黙って男性に気に入られて、やりたいことを通す道を選ぶ女性の方が賢いとする考え方は根強いよね。だから、声をあげても男性からはもちろん、女性からの支持も得られないということがハリウッドでも繰り返されてきた。女性の連帯を阻んできたものには複数の理由があると思うけど、今のハリウッドでは、女性たちが団結し、連帯してセクハラやパワハラ、セクシズム(女性蔑視)にノーと言おうと声をあげている。時代は確実に変化しているんだなとも思うし、ここで変わらなきゃいけないとも思うわけですよ。
今:女性の連帯は今こそ必要なことですよね。そう考えるとハリウッドほど女優同士のいさかいが格好のゴシップになる場所もない。「SEX AND THE CITY」(SATC)や「デスパレートな妻たち」など、女優が共演する作品では必ずキャスト同士の不和がメディアを賑わせる恒例行事のようなもの。でも、仕組まれたものや話題作りの一環と思われることも少なくないですよね? デイヴィスとクロフォードの世紀の不仲もエキセントリックな数々の逸話も、事実もあるでしょうが、ワーナーなどの金儲け主義の人々によって歪めて伝えられたものがそのまま伝説となっているものもあると思う。
山縣:「厄介な扱いづらい女優」とレッテルを貼って抹殺する手口と同じだよね。メディア操作術はワインスタインの件でもわかるようにお家芸。もちろん、二人があきれるほど気が強かったことは確かでしょう。だって、そうでもなきゃこれほどの男性社会でサバイブすることは不可能だし、女優のエゴは凄まじいものがあると思う。自分が一番でありたいという自意識が、彼女たちの相互理解や連帯を阻んでいた最大の要因だと思う。ジョーンは美女、ベティは演技派として、お互いのコンプレックスとプライドの部分が噛み合わなかった。『ふるえて眠れ』(1964年)で2回目の共演をしたときにはベティがプロデューサーを兼ねていて、ドラマではクロフォードに関するシーンで、ここはカットとかセリフもいらないとか言うけれど、きっとデイヴィスが正しかったんだろうなと(最終的にクロフォードは降板した)。でも、クロフォードにすれば自分より上に立たれると腹が立つし、トップスター同士、譲らないんだよね~。
今:まあエゴがなければ女優になんてなれないだろうとも思うけど、そうしたエゴが付け込まれる隙を作ったというか、スタジオやプロデューサーたちにまんまと利用されたというか。
山縣:今でもそうだけど、当時はもっともっとハリウッドという閉じられた狭い世界に彼女たちは生きていたんだと思う。視野が狭いから客観的に自分たちの立ち位置を見極めることができなかった、ビッグピクチャーが描けなかったんじゃないのかな。そこにマスコミが乗っかるからまたややこしくなる。
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