ウディ・アレンからクイーンまで、後世に多大な影響を与えたマルクス兄弟の代表作『マルクス兄弟オペラは踊る』(1935年)
名画プレイバック
映画がサイレントからトーキーになった時、映画スターの勢力図は大きく変わった。自らの声、音を使いこなせずに失速していったスターたちの代わりに台頭したのがマルクス兄弟。マシンガントークの面白さ、ピアノやハープの演奏、さらにドタバタのアクションで、見せて聞かせる映画の新時代に躍り出た。数多くの傑作がある中で紹介したいのは、親しみやすい入門編として『マルクス兄弟オペラは踊る』(1935)だ。(冨永由紀)
マルクス兄弟とは、1900年代から40年代末まで活躍した兄弟のコメディー俳優のグループ。ユダヤ系ドイツ移民の兄弟で、ヴォードヴィル芸人として舞台で活躍してきた彼らは1929年に『ココナッツ』で映画デビューするや、チャップリンやキートンの作品にはなかった話芸もプラスした芸風でスターになった。4人で活動していた兄弟だが、末弟で美男子キャラだったゼッポが抜けて、極太眉に口ひげで堂々と口からでまかせを言い続けるグルーチョ、イタリア訛りの詐欺師チコ、一言も発せずにマイムと口笛やホーンで意思表示するハーポというキャラクター設定のトリオになった第1作が『オペラは踊る』だ。
イタリアのミラノで富豪の未亡人に取り入って、本場のオペラ劇団のアメリカ巡業資金を確保した詐欺師のドリフトウッド(グルーチョ)は一座を連れてアメリカ行きの船に乗る。そこに劇団員の若きテノール、リカルドのマネージャーのフィオレッロ(チコ)と一座のスター、ラスパッリの衣装係・トマソ(ハーポ)が絡み、歌姫ローザとリカルドのロマンスも描かれる。
前作『我輩はカモである』(1933)の興行不振でパラマウント社との契約を切られた兄弟がMGMに移り、新規蒔き返しを図った勝負作だが、兄弟の持ち味である、度を超したナンセンスな悪ふざけ(前作はそれが災いして当時の観客が引いてしまった)はだいぶおとなしくなり、歌姫と駆け出し歌手の恋という、ロマンティックなストーリーラインがある。そこに茶々を入れるように引っ掻き回すのが兄弟によるコミカルな場面の数々。狭い船室に15人がすし詰め状態になるシーン、ドリフトウッドとフィオレッロが契約について話し合いながら契約書をどんどん破り捨てていくシーン、家具の配置換えで刑事を混乱させるシーン、ハーポはターザンばりに舞台の天井から吊るされたロープで飛び回るなど、後世で数え切れないほどパロディーやオマージュが繰り返された古典的ギャグが詰め込まれる。当時兄弟は3人とも40代後半になっていたが、演技はキレキレかつ軽やかだ。
どの場面もハズレなしなのは、製作の前に舞台巡業を行い、観客の受けを参考にしながら磨いていったからだという。ギャグに対する反応と笑いが続く時間まで計算し尽くされ、女性客を意識した作風は、本来の彼らの持ち味を愛するファンにとっては少々物足りないかもしれないが、金持ちや威張り散らすスターなど権威を笠に着る者を飄々と出し抜く兄弟の活躍は痛快。笑いとアクション、ロマンスに音楽もありというエンターテインメントの王道作だ。
MGMらしいダンス・シーンやオペラの実演など音楽シーンの充実も楽しい。劇中のオペラ「イル・トロヴァトーレ」のあらすじは、愛し合うカップルの前に権力者の恋敵が現れるというもの。ローザとリカルド、ラスパッリの関係をなぞる形になっている。ローザ役のキティ・カーライルとリカルド役のアラン・ジョーンズはともにオペラ歌唱を学んでいたので、吹き替えなしで彼らの歌声が使用されている。テレビもなかった1930年代に、この映画で初めてオペラを観たという観客も少なくなかっただろう。白眉はやはり、チコのピアノ、そしてハーポのハープ演奏だ。
面白いことをするおじさんが笑わせてくれるのを楽しみにしていた子供たちが、チコの一本指奏法のピアノに目を輝かせ、ハーポが奏でる流麗なハープの響きにうっとり聴き入る表情は、作り込まれたコメディーから逸脱したドキュメンタリー的な一瞬にも見える。ハーポは「Harpo Speaks!」という自伝を1961年に発表しているが、文中で、スクリーン上で女性を追いかけ回す赤毛のボサボサ頭の男はキャラクターとしてのハーポであり、「座ってハープを演奏する時、それは私です。ハープの弦にふれる時はいつも、私は役者であることをやめていました」と綴っている。
兄弟の成功の立役者は、彼らをMGMに招いた名プロデューサーのアーヴィング・タルバーグだ。サイレント時代からヒット作を連発し、『グランド・ホテル』(1932)、『戦艦バウンティ号の叛乱』(1935)などを手がけたタルバーグこそが、アナーキーで過剰に走りがちだった兄弟を大衆に受け入れやすいキャラクターに生まれ変わらせたのだが、1936年に37歳の若さで病没。彼がプリプロダクションに参加した『マルクス一番乗り』(1937)は大ヒットしたが、その後の作品は精彩を欠き、1949年の『ラヴ・ハッピー』(日本劇場未公開)がマルクス兄弟として最後の主演作となった。
その後、ビリー・ワイルダー監督と新作映画を撮る計画があったが、チコが1961年に74歳で亡くなり、中止となった。3年後にはハーポが75歳で亡くなった。1977年に86歳で亡くなったグルーチョは晩年、マネージメントを音楽業界の大物シェップ・ゴードンに任せていた。同じくシェップがマネージメントを手がけたアリス・クーパーとの友情エピソードや年老いたグルーチョの姿は、シェップのドキュメンタリー映画『スーパーメンチ -時代をプロデュースした男!-』にチラッと登場している。
1930年代当時からサルバドール・ダリやイギリスのチャーチル首相などに愛されていた彼らが、その後のポップカルチャーに与えた影響は大きい。ウディ・アレンは『アニー・ホール』(1977)のオープニング・モノローグでグルーチョの台詞を引用したほか、多くの作品にマルクス兄弟への目配せがある。クイーンのアルバム「オペラ座の夜」は本作の原題『A Night at the Opera』をそのまま使用したものであり、「華麗なるレース」も『マルクス一番乗り』の原題(A Day at the Races)を借りている。確かに、製作当時の旬のネタを扱ったがゆえに最早意味不明のギャグもいくつかはある。だが、ナンセンスをまぶした知性とユーモアにあふれたマルクス兄弟の映画は、いつの時代にも通用するのだ。