毛皮のヴィーナス (2013):映画短評
毛皮のヴィーナス (2013)ライター5人の平均評価: 4
本能が観念を凌駕していく痛快さ
某俳優は「不倫は文化」と発言して顰蹙を買ったが、的を得た言葉でもある。古から文学は、禁断の愛のオンパレード。谷崎潤一郎に春のめざめを教わった人も多いはず。芸術か?ポルノか? 本作は戯曲の映画化ではあるが、その長年の論争に対するポランスキー先生の答えと見た。
マゾヒズムの語源となった小説の戯曲オーディションで意見を戦わす演出家と女優。愛の物語だと理論武装する演出家が、女優の色香に簡単に翻弄されてしまうのが論より証拠。性に踊らされて生きる私たち。それを81歳にして堂々、作品で認めてしまうポランスキー監督。お元気ですね。
「女神をナメるな、これがテーマよ」
19世紀末のマゾッホの小説を劇化した現代の作演出家と謎の女優とのオーディション…という形を借りた、実在する二人芝居の映画化(ややこし)。自身も舞台俳優であるポランスキー、いくつか戯曲モノは手掛けているし、前作『おとなのけんか』は爆笑の傑作だったが、これはより舞台寄りの印象(キメのシーンではここぞとばかりにクローズアップするが)。顔の造作といい背格好といい、どう見たってポランスキーの分身的なM.アマルリックと、ポランスキー夫人であるE.セニエとのジェンダー闘争的掛け合いはどうしても二人の私生活を想像させてしまう。4/4+5/4の乱調なテーマはじめA.デスプラの音楽も茶目っ気あり。
フェミニズム的な観点に立った社会風刺劇
有名なマゾッホの同名小説ではなく、そこからインスパイアされた戯曲の映画化。舞台版「毛皮のヴィーナス」のオーディション会場で、無名女優と演出家の緊迫した二人芝居が繰り広げられる。
巧みに混ざりあっていく虚構と現実、次第に逆転していく女優と演出家の立場。これはジェンダーや階級にまつわるパワー・ゲームであり、フェミニズム的な観点に立った社会風刺劇だと言えよう。
ポランスキーの妻エマニュエル・セニエが女優を演じ、若かりし頃のポランスキーにソックリなマチュー・アルマリックが演出家を演じる。その意味深な配役を含め、80歳を超えた巨匠の飽くなき遊び心にもニンマリ。セニエの堂々たる演技にも感服する。
ヴィーナスはいろんな顔を持っている
女優に翻弄されていく演出家の物語という表層の下には、別の物語がある。女優によるマゾッホの「毛皮にヴィーナス」の解釈は、演出家の解釈とは異なり、彼女はその解釈によって、演出家の深層心理を暴き、さらにマゾヒズムという概念に潜む欺瞞、恋愛の下に隠された支配・非支配の論理をも暴いていく。そして彼女は、最後に思いもよらなかった正体を明らかにする。すべての演出家は、美にはただ打たれることしか出来ない。
ポランスキーの演出は、ほぼ全編を通して演劇の舞台をそのまま映す形だが、物語の導入部と終結部、そして男が女のロングブーツのジッパーを上げる場面のみ、映画的な映像になる。その演出の徹底ぶりがいい。
秘めていた実力を発揮したセニエに目が釘付け
『フランティック』で注目されたものの、私には魅力がちっともわからなかったE・セニエ。長年、ポランスキー監督の妻という色眼鏡で見ていた彼女の実力がワンダ役でついに開花した。売れない女優なのに高飛車な冒頭の勘違い女から妖艶なマダム、きっつい女王様と百花繚乱の演じ分けがお見事。常軌を逸した感じがなぜか魅力的に見えるし、こんなに芸達者とは驚く。知的な演出家トマが彼女に翻弄され、支配される喜びに溺れていくのも納得だ。トマ役のマチュー・アマルリックがまた素晴らしく、監督が己を投影させたマゾヒスティックな男の喜怒哀楽が微細に伝えている。この図式、実はポランスキーと妻セニエの主従関係と似てるのかも。