ホドロフスキーのサイコマジック (2019):映画短評
ホドロフスキーのサイコマジック (2019)ライター2人の平均評価: 3.5
破格のセラピストとしての奇才
あいちトリエンナーレの手紙展示も話題になったオリジナルの心理療法。処方を受ける相談者が10組登場するが、ほとんどが「裸」になる。性器を赤く塗ったり、Arthur Hもパンイチに! 全編の随所に過去作(『ファンド・アンド・リス』や『Tusk』等も)のシーンが引用・挿入されるのだが、要は施術の光景が「ホドロフスキー映画そのまま」だ。
前衛演劇やハプニングアートを基にした儀式性には不思議な陽気さがあふれ、生の歓びや魂の解放を得るためのワークショップといった趣。真面目な話、『YOYOCHU SEXと代々木忠の世界』と併せて観るのは面白いと思うし、橋口亮輔監督の『ゼンタイ』等とも響き合う気がする。
もともとホドロフスキー映画は呪術だった
もともとホドロフスキーの映画は"無意識に働きかける呪術"だったということを、ホドロフスキー自身が宣言するドキュメンタリー。彼が、現在自分自身の身体を使って直接行っている"セラピー"と、彼のこれまで描いた"映画のシーン"を並べて提示して、それが同じものであることを見せつける。すると、それが同じものに見えてくる。そして、彼の作品に限らず、そもそも映画というもの、芸術というものには、あらかじめそういう呪術的側面があったことを再認識させられる。
それにつけても、この映画でホドロフスキーの施術を受ける人々がみな、かなり強烈な個性と経験の持ち主。どの人物もこの監督の映画の登場人物のように見えてくる。