選ばなかったみち (2020):映画短評
選ばなかったみち (2020)ライター3人の平均評価: 3.3
積み重ねた人生の選択にはきっと意味がある
若年性アルツハイマーの父親を医者の定期検診に連れていく娘の1日を描く。予測できない父親の行動に振り回され、行く先々で怒られたり侮蔑されたりする父親に胸を痛める娘。その父親の意識は遠い過去の記憶へと旅し、人生の重要な岐路で「選ばなかったみち」を疑似体験する。赤の他人から見れば「頭のおかしな中年男」かもしれない。しかし、そんな彼にも喜びと悲しみ、出会いと別れ、希望と挫折を経験した豊かな人生が確かに存在するのだ。娘の視点と父親の視点を巧みに交錯させながら、人間の尊厳と人生の儚さを浮き彫りにしつつ、生きることの意味を見る者に問う。後悔のない人生などない。それでも我々は前を向いて歩かねばならないと。
監督のパーソナルな経験と思いが感じられる
サリー・ポッター監督は、認知症に苦しんだ弟の介護をした経験をもつとのことで、パーソナルな視点はあらゆるところに見受けられる。たとえば、父を名前でなく「彼」と呼び、同じ重みをもつ人間として扱わない人たちに対する不満をエル・ファニング演じる娘が口にするシーン。父のために、彼女が仕事を犠牲にしてしまう部分にもリアリティがある。映画は、そんな父が頭の中でめぐらせる過去への思い(つまり、選ばなかったみち)を平行して見せつつ進行。だが、それらがうまくまとまらず、やや散漫なせいか、フロリアン・ゼレールの「ファーザー」のようなインパクトには欠ける。
選ばなかった道にもまた意味がある
男の脳裏に浮かぶここではない場所の光景が、やがて、男が選ばなかった道を歩んだ時の物語だということが分かってくる。男が選んだ道と、選ばなかった2つの道、その3つの道それぞれが異なる色彩を帯び、別種の輝きを放つ。ならば、選び取って歩んでいる道だけでなく、選ばなかった道もまた、歩みの中で同じように大きな意味を持っているのではないか。そのようにも思えてくる。
父親役のハビエル・バルデムが巧み。娘役のエル・ファニングの飾らない魅力が際立つのは、彼女と本作のサリー・ポッター監督が既に2012年の『ジンジャーの朝 ~さよなら、わたしが愛した世界』で組み、信頼関係を築いているからではないだろうか。