AMY エイミー (2015):映画短評
AMY エイミー (2015)ライター3人の平均評価: 5
2011年のエイミー、1970年のジャニス
ひとつの魂が灼熱の温度で燃え尽きていく。まるで知人の死を知り、ネットにアップされていた動画をどんどん拾っていくような鑑賞体験だ。
例えば同じ「27歳夭折」の女性シンガーの人生を辿った『ジャニス:リトル・ガール・ブルー』(9月公開、こちらも逸品)が、あくまで伝説の追体験として詩的な距離感が保たれているのに対し、『AMY』の映像はミもフタもなく等身大でグサグサと生々しい。
動画撮影が日常に密着した時代の、カメラの“近さ”が彼女を追い詰めていった様も体感する。公の場であるグラミー賞授賞式で、憧れのトニー・ベネットを目にした時の少女のような顔が、最も美しい“素”の表情に思えるのが心底泣けるのだ。
天才シンガーの素顔から見えてきたのは?
ソウルフルな声が印象的な天才シンガーでありながら、スキャンダルにまみれたまま夭逝したエイミー。14歳のエイミーが親友の誕生日を祝うビデオ映像から始まるドキュメンタリーは、彼女の栄枯盛衰を追うと同時に本人も気づいていなかった精神面を分析する。友人が撮影した映像やテレビ番組のフッテージ、彼女を知る人の証言、歌詞に秘められた心情から浮かび上がるのは、音楽界での成功よりも父親や恋人に愛されることを求めた繊細な女性像だ。自信が持てずに去勢を張り、寂しん坊で子供のように振る舞うこともある。手に入らないものを求めて壊れていったエイミーの素顔に接近し、彼女に正当な評価を与えた監督の視点に深く感じ入った。
誰が彼女を殺したか? 劇的過ぎる真実がここに!
エイミー・ワインハウスという歌手について知っていたのは2、3曲程度で、ゴシップを賑わせた人という程度の認識。それでも胸に響いたのは本ドキュメンタリーが“物語”としてまとまっていたから。
エイミーの夭逝をロックスターお決まりのドラッグ禍や、自己責任に求めるのは簡単だ。しかし、そこに導いた者が確かに存在した。一度は彼女を捨てた実父、ヤク中の恋人、執拗なパパラッチ、そしてゴシップを求める我々大衆。彼女にプレッシャーを与える者がいた事実は、あまりに重い。
愛情に飢えていたエイミーはそれをエサに利用され、搾取される。ノンフィクションとは思えないほど出来すぎた悲劇。本作の“物語”はそこに宿る。