許されざる者 (2013):映画短評
許されざる者 (2013)ライター8人の平均評価: 4
もっと物語に独自性を追求してもよかった
イーストウッドの傑作のリメイクとしては大健闘だと思う。北海道を舞台にしたロケーションの雄大さは素晴らしく、翻案は巧み。渡辺謙は期待通りの熱演で、ラストの修羅場は見事。全編を通して作り手の気合いがビシビシと伝わってくる。
が、筆者は今一つぐっと心に響くものを感じなかった。最大の理由は、オリジナルへのリスペクトからくるのだろうが全体的に堅さが否めず、どこか様式的で、終始オリジナルをなぞっている感覚が抜けなかったこと。故に、これはこれとして観るべきと思いながらも、李監督の世界に没頭し感情移入することが難しかった。
何度か無心に引き込まれた場面もあった。その一つが理不尽に迫害されるアイヌ民族のくだりだ。ただし、この要素はアイヌ民族とのハーフの若者の設定も含めて李版ならではの独自性を最も強く感じさせるが、オリジナルをなぞった物語からは浮いているようにも見える。いずれにせよ、なぜ今これをリメイクするのかについては”上手く日本に舞台を置き換えました”以上の、もっと突っ込んだ答えが欲しかった。そのためには、もっと物語に独自性を追求してもよかったと思う。
この映画はすなわち、李相日監督の『続・悪人』である
李相日監督は前作『悪人』でストレートに、愚直なまでに「悪人とは誰のことなのか?」をメインテーマに据えていた。従って「許されざる者とは一体誰なのか?」という問いを突きつけてくるクリント・イーストウッド版『許されざる者』に挑んだのは、合点がいく。
つまり、これは『続・悪人』だ。放射する光の一筋以外は全て闇に包まれている、光と闇を作りだす『悪人』の灯台が、李相日版『許されざる者』では深い「業」を背負って世界に陰翳を与える主人公・釜田十兵衛に姿を変えたのだ。さながら“動く灯台”である。
かつて手塚治虫の『シュマリ』を映画化したいと語っていた李監督だが、それをある程度ここで叶えたのではないか。改変したオリジナリティ部分に甘さも見られるが、演出家としてより、そもそもの、アダプテーション脚色者としての“任”の重さを感じた。
ラスト、イーストウッド版は黄昏の情景で終わっていく。李相日版は(岩代太郎の音楽とあいまって)、ひとりの“ダークナイト”が今、そこに誕生したかのような印象を与えるが、『続・悪人』は、ひとりひとりの心の中で上映され、生きられるものとなるだろう。
李監督の巧妙なアメとムチの使い方にハマる
オリジナル版と展開もセリフもほぼ同じだが、大きく印象が異なる事が2つある。1つは残忍さ。これは多分に日本の湿った大地と刀に変わったためというより、『悪人』の岡田将生キックでも垣間見えた、李監督のドSっぷりが炸裂した結果だろう。そして2つ目は、いつの時代も変わらぬ女性の逞しき姿である。
本作の男性陣はとにかくブレる。食べる為に抜刀する者、虚栄心から賞金稼ぎを名乗り出るもボコられて退散する者。そもそもが、時代の変わり目に行き場を失い、魂の放浪をいまだ続けている元武士ばかりだ。対して、小池栄子と忽那汐里は不条理に声を上げつつ、変わらぬ現実を静かに受け止める。ブレない。そして忽那の儚さと可憐さは、本作の男たちならずとも、想像以上に残酷過ぎる世界を見せられて戸惑う観客の癒やしになるに違いない。この物語に散りばめられたアメとムチも李監督の策略か? 世知辛い男の世界+女性+風景というバランスが実に絶妙なのだ。
イーストウッドにも胸を張って見てもらえるはず
やはり北海道と西部劇というのは相性がいいのだろうか。元祖和製西部劇「ギターを持った渡り鳥」では北海道の大自然が古き良き大西部を彷彿とさせる牧歌性と情緒を醸し出していたが、イーストウッドの同名西部劇を基にした本作で描かれる北海道は、明治初期の荒涼とした未開の地。理由あって本土での生活を捨てざるを得なかった、暗い過去を背負う人間たちの吹き溜まりだ。先住民であるアイヌへの弾圧を含め、あらゆる点で開拓時代の西部と見事なくらい重なり合う。この段階で、本作の成功はある程度まで約束されていたのかもしれない。
宿命的にオリジナル版の影響は引きずらざるを得ないわけだが、本作は江戸から明治への転換期という歴史的背景を巧みに生かし、罪深き男の苦難と贖罪の物語を描く日本の時代劇として立派に成立させている。権力と暴力に翻弄され蹂躙される人々の姿を殺伐とした荒々しさの中に描写しつつも、普遍的な人間性というものに確かな信頼と希望を見出す李監督の語り口は実に説得力があって力強い。イーストウッドにも胸を張って見てもらえるはずだ。
「食うために錆びた刀を再び握ってしまう」時代の危うい神話
最後の西部劇と言わしめたオリジナル版に対し、時代劇を葬送する意図はない。そもそも渡辺謙は、アクション映画というジャンルを長年背負い殺しまくってきたイーストウッドのようなイコンではない。これは、李相日による外部から観たこの国の正体だ。破れて北へ逃げ延び、二度と人を斬らないと誓ったはずの侍の生き残りに託されたもの――善悪の曖昧な境界というテーマにも加え、「食うために錆びた刀を再び握ってしまう」危うさを孕む時代に、封じ込められてきた人間の本能が不気味に頭をもたげるのだ。
開拓民の暴力に耐えかね女郎たちが懸けた賞金によって物語が作動する構造はオリジナル版と同じだが、脚色に唸った。渡辺謙と柄本明の後を付け回し賞金稼ぎに加わる柳楽優弥に、李相日は重要な役割を託す。アイヌ出身である彼は、まるで『七人の侍』の菊千代よろしく、虐げられる者と挑み奪う者の間を往き来し、やがて廃墟の中の希望となる。
リアリティを追求した刀の接近戦は、銃撃戦よりも遙かに陰惨だ。復讐心、支配欲、生存本能…背徳感とは裏腹にどす黒い生命力さえ感じさせながら、人は誰しも許されざる者かもしれないという思いに到らせられる。
“死神”渡辺謙は真に許されざる者だった!
個人的に大好きなクリント・イーストウッドの監督作、それもアカデミー賞受賞作。そんな傑作をわざわざリメイクするという試みには不安があったが、それを払拭するみごとな突き抜けぶり。オリジナルのユーモアや哀愁は消え去り、恐ろしくアクの強いドラマとなった。
シネマスコープいっぱいに広がる北海道の雄大な風景に、まず圧倒される。そこで繰り広げられるのは業の深い人間の物語。生き延びるために雪原で追手を次々と刺殺&撲殺する主人公の姿をとらえた冒頭でそれを宣言するや、中盤は罪深き人々の群像が連なり、主人公が再び暴れ出すクライマックスはまさしく修羅場。人助けが転じて村を一個壊滅させてしまう。本作での渡辺謙は、ほとんど死神だ。バイオレンスはあくまで殺伐としており、そこから“業”が染み出てくる。これはもう、オリジナルでイーストウッドが演じた老ガンマン以上に“許されざる者”である。
リメイクとはいえ物語の大筋を借りただけで、テーマも筆圧もまったく異なる力作。救いのない読後感は、むしろイーストウッドが監督した、もうひとつの名作に近いことを記しておきたい。
渡辺謙と柄本明の予想通りの熱演に尽きる
オリジナルをリスペクトし、ほぼ踏襲しながらも在日コリアンである自身とアイヌの存在をシンクロさせて描いた李監督による脚本は、確かに評価すべきかもしれない。だが、オリジナルに特に思い入れがない人間にとっては、そんなことはどうでもいい。
そもそも、なぜ今、日本映画界で『許されざる者』をリメイクする必要があるのか? 同じ李監督の『悪人』や、同じワーナー作品の『るろうに剣心』との共通項を探しながら観ても、その流れという答えしか見つからない。同じデイヴィッド・ウェッブ・ピープルズ脚本作で、渡辺謙主演なら『サルート・オブ・ザ・ジャガー』の方が観たいわけで…。
渡辺謙と柄本明は予想通りの熱演を魅せてくれるので、“それ目的”なら問題はないが、それに尽きてしまうのも事実(佐藤浩市は明らかに監督にハンドリングされて消化不良)。
ただ、雄大な北海道の大地を捉えた映像美。そして、これまで見えなかった三浦貴大の俳優としての可能性。この2点はしっかり評価したい。
白土三平的なカスタマイズ
とんでもなくハードルの高い企画だが、善戦以上の出来だと思う。撮影(笠松則通)など現場のスタッフワークも素晴らしいが、筆者が感心したのは監督・李相日の脚色だ。北海道の土地を見据えながら、江戸から明治への転換期の様相・情報を盛り込むことで、「神映画」たるイーストウッド作品にしっかり「上書き」を遂行した。
物語の運びはほぼ同じながら、イーストウッド版が“西部劇へのレクイエム”的なジャンル映画の神話として屹立しているのに対し、李版は没落武士、アイヌ民族、女郎らを通して差別構造にタッチし、“描かれなかった歴史”をフィクションの形で記述しようとする。その意味で白土三平の劇画を連想した。また時代や社会に抑圧されるマイノリティの側に立つ視点は、『青~chong~』『BORDER LINE』から『フラガール』『悪人』まで、李相日が描き続ける「日本論」の延長にある。
尤もオリジナルへの配慮が自由なエモーションを制限する、リメイクにありがちな罠から抜け切っていないのは否めず、どこか表現として堅い。しかし大勝負だからこそ、堅実な仕事に徹した李相日の判断は間違っていない。世界把握が正確な秀才の映画だ。