四十九日のレシピ (2012):映画短評
四十九日のレシピ (2012)ライター3人の平均評価: 4
血よりも縁。ゆるやかなつながりでも人は無上の癒しを得る
突然の死が招き寄せる喪失感。無骨な夫・石橋蓮司は路頭に迷い、娘・永作博美は浮気した亭主を置いて実家に還る。重い空気を切り裂くのは、ロリータ少女・二階堂ふみと日系ブラジル青年・岡田将生。闖入者は温かな調味料になるだけでなく、家族をほぐし、「四十九日には大宴会を」という母の願いを叶えるべく物語は動き出す。
継子であり子宝に恵まれない女性の負い目が、通奏低音ではある。しかし孤立をことさらには捉えない。インサートされる後悔と愛惜の過去が独特のリズムを生む。静かに流れる「川」を日本人の死生観の象徴として捉え、陰影と余白の豊かな近藤龍人の撮影が美しい。終盤へ向かうほど煌めきを増す永作の表情の変化こそが、映画的ダイナミズムだ。
タナダユキは、原作のファンタジー色を排し、地に足の着いた姿を切り取る。血よりも縁。他者とのゆるやかなつながりでも、人は無上の癒しを得る。これはマニュアルなき少子高齢化の現実を生きるための処方箋だ。娘と父のささやかな再生劇ではあるのだが、個々がバラバラになったこの国で生きづらさを抱く者なら、登場する人物の誰かしらに自身の影を見出すだろう。
タナダ的考察・これからの「大人」とは
今年、『そして父になる』と対になる作品はコレではないか。現代日本の未熟さを抱えたミドルエイジが、いかに成熟するかを探る映画の男版/女版としてパラレルな関係にあると思うのだ。『四十九日~』のヒロイン(永作博美)は自分の継母を、出産経験のないまま母性を自他の幸福に活かした先輩=ロールモデルとして尊敬を抱く構造になっているが、共に“未知なる大人のスタートラインに立つ”までの話なのも同じだ。
監督のタナダユキは前作『ふがいない僕は空を見た』でも、田畑智子の快演を得て不妊のプレッシャーに悩む主婦の問題を扱っており、今回はその延長と言える。タナダは自作自演のデビュー作『モル』(01年)から、女子の自意識と社会の関係を鋭く描き出してきた。いわゆるロスジェネ世代の女性で、年齢ごとの実感をコンスタントに残してきた唯一の貴重な映画作家になっている。
尤も『ふがいない~』は群像劇としての精度が高かったが、今作は日系ブラジル人役に岡田将生を当てるムチャぶりなど、脇が甘いのが少し気になった。とはいえ、最近の男性監督が描きがちな「女(母)は強し」の幻想を斬るアプローチで攻めたのは、さすがタナダである!
女の幸せと、ひとりの人間としての幸せは違うのか?
タイトルから料理自慢のしみじみとした人間ドラマを予想したが(筆者は原作もドラマも未体験)、これが思った以上にぐさぐさと女の心に刺さる映画だった。
主人公の百合子は、実子を持つことなく亡くなった養母・乙美の人生をたどりながら、自身の破綻した結婚と重ね合わせて改めて女の幸せとは、母親とは何なのかを思い悩む。そしてふと涙ながらにつぶやく、「子供を産まなかった女の人生は空白が多いのかなあ」という台詞はずしりと重い。
現実として、”女の幸せ”に関する社会通念の壁は厳然と存在しており、本作の百合子のように、親戚や知人、メディアに夫やその愛人etc.から受ける「子供を持たない女」への言葉の破壊力は凄まじいものがある。それが故意にしろ無意識にしろ。
果たして、女の幸せとひとりの人間として幸せに生きることは、別モノなのだろうか? 筆者は決してそうは思わない。乙美の生き方は改めてそう思わせてくれるものだが、観る人の年齢や状況によって思いは複雑だろう。心温まるエピソードも多いが、親子や夫婦、家族のあり方、社会や他者との関わり方などについて考えさせられる作品だ。