嗤う分身 (2013):映画短評
嗤う分身 (2013)ライター3人の平均評価: 3.3
人は自分と似ている人間ほど目障りに感じるもの
地味で目立たない不器用な男サイモンが、容姿は自分と瓜二つだが性格はまるで正反対の分身ジェームズによって、仕事も恋愛も生活も奪われていく。
あえて時代も場所も特定できない陰鬱とした世界は、ドストエフスキー原作だからというわけではないが、どことなくソ連時代のロシアを連想させる。その妙な懐かしさと重苦しさの混在する異空間に、昭和歌謡の寂しげなメロディがよく似合う。
人によって様々な解釈のできる作品だが、果たしてサイモンを要領のいいジェームズに嫉妬するウジウジとした情けない男として軽蔑するか、それとも悪魔のような分身に存在を脅かされる可哀想な男として同情するか、そこがひとつの分岐点かもしれない。
アイゼンバーグはヤリ手の分身のほうが似合うかも
監督は「サブマリン」のリチャード・アイオアディ、監督と共に脚本を担当したのはハーモニー・コリンの弟で「ミスター・ロンリー」を書いたアヴィ・コリン、主演は「ソーシャル・ネットワーク」のジェシー・アイゼンバーグ。この顔ぶれが、ドフトエフスキーの古典「分身(二重人格)」をどんな新鮮な切り口で描くのかと思ったら、その逆で、このテーマが現代でも色褪せない普遍的なテーマであることを証明してみせる。あえて時代も場所も特定されないどこか。世界は、電車の中と、会社の中と、自室の内のみ。そこはいつも、まるで夜のような薄暗い人工照明だけで照らされている。主人公の"ちょっとだけタイミングの悪い感じ"の演出がリアル。
キーポイントとなるのは、“青さ”
望ましくない現実の自分と、それを啓蒙する、こうありたい自分の分身のせめぎ合い。こういうアイデンティティの物語は、若い世代にこそアピールするものだろう。
社交的な分身の姿に、オドオドした自分の情けなさを感じてしまう主人公のドラマは、ファンタジーとして面白い。が、『ファイト・クラブ』というひと世代前の傑作に衝撃を受けた人間には、青さも鼻につく。
それでもこの映画が憎めないのは、ジェシー・アイゼンバーグという“青さ”を体現できる役者の好演があるから。淡色のジャケットを着て、あたふたしている彼の姿がとにかく面白く、見方を変えると青年版『未来世紀ブラジル』のようにも思えてくる。