ザ・デクラインIII (1998):映画短評
ザ・デクラインIII (1998)ライター2人の平均評価: 4.5
'90年代パンクキッズの生き様に格差社会アメリカの病巣を見る
L.A.ロックシーンの移り変わりをカメラに収めた三部作の最終章は、’90年代半ばのハードコア/パンクにフォーカス。1作目のアングラな反骨精神へと原点回帰している。
そこに映し出されるのは、仲間同士で肩を寄せ合うホームレスのパンクキッズ。虐待やイジメなどで家族から見放され、貧困と差別のため社会からドロップアウトした彼らは、パンクに己のアイデンティティを見出し、資本主義の偽善や理不尽に対する怒りを音楽へと託す。
アメリカの深刻な格差社会はリーマンショック以降の問題として語られがちだが、その遥か以前から歴然と存在していたことがよく分かる。音楽映画の枠を超えた骨太な社会派ドキュメンタリーだ。
『神様なんかくそくらえ』につながる苛酷な現実
幻の一本だった三部作の完結篇がついに日本公開。「社会学」的にはコレが最も傑作だろう。被写体は96~97年のL.A.で路上暮らしをしているガター・パンクス(もはや音楽のジャンルではない)。アティテュードではなくリアルな「ノー・フューチャー」の青春群像。パンクは生き難き若者達の最終的な受け皿のコミュニティだ。
レッチリのフリーなど「成功者」も証言者として登場するが、「5年後はどうなってる?」というスフィーリス監督の質問に大勢が「もう死んでるよ」と答える。そして「ホームレスと虐待された子供たちを支援します」とのテロップ。これはストリートという言葉に甘美な響きがあった時代の“終わりの始まり”である。