淵に立つ (2016):映画短評
淵に立つ (2016)ライター2人の平均評価: 4.5
夫婦とは、家族とは何か?を冷徹に見つめる問題作
幸せそうに見える家族の日常が一人の異質な闖入者によって崩壊する、という設定は「テオレマ」を彷彿とさせるが、パゾリーニがブルジョワ階級の偽善と腐敗を暴いたのに対し、本作では夫婦や家族の絆と呼ばれるものに疑問を呈する。
恐らく、見る者の価値観や人生経験によって賛否は大きく分かれるはずだ。実際、密度の濃厚な家庭環境で育ち、その強固な絆によって守られてきた筆者にとって、ここで描かれる家族観には漠然とした居心地の悪さや違和感を覚える。しかし、それこそが本作の意図するところなのだろう。
夫婦や家族とはこうあるべき。そんな固定概念に風穴を開けるという意味で、これは極めて挑戦的な映画である。
「映画狂」から本気の「闘争」へ――俊英作家のセカンドステージ
『ほとりの朔子』までの深田晃司のメインエンジンが“自分の好きな映画を作る”=シネフィル的欲望だったとするなら、『さようなら』と今作は“世界を納得させる”ための勝負作に舵を切っていると思う。オルガンの音、赤いTシャツなどアクセントの強い象徴表現が置かれ、意味性を押し出した作り。しかも極めて明晰だ。
「闖入者」のモチーフは二度目。つげ義春『李さん一家』の影響を公言していた『歓待』に比べると、今回はキリスト教の投入も含めて『テオレマ』度が高い。浅野忠信はあのテレンス・スタンプと同様にセクシュアルな存在だ。そしてパゾリーニのブルジョワ批判を、現代の家族一般を覆う虚偽と欺瞞の問題へ移行させている。