さよなら、僕のマンハッタン (2017):映画短評
さよなら、僕のマンハッタン (2017)ライター6人の平均評価: 3.7
言葉こそ重用、これぞ文学的映画の好例!
ユーモアをまじえたマンハッタンのスケッチは、『(500)日のサマー』のM・ウェブならでは。人が住む町の息遣いを真空パックしたような臨場感にあふれている。
これをベースに、“大人の事情”に遭遇して学んでいく青年の成長劇が展開。”サマー”以上に言葉が重要で、文学的な香りを漂わせるているのがミソ。映画に意欲的に向き合う観客に、人間ドラマとして確かな手応えをあたえるだろう。
役者陣の個性が突き出ているのも妙味。とりわけ、ブリッジス、ブロスナンらベテラン勢の味なキャラがイイ。ボブ・ディランをはじめとする起用楽曲にも意味があり、それを解釈するのも楽しみのひとつ。
『卒業』をウディ・アレン風に料理した小粋なニューヨーク派映画
かつての危険で猥雑なエネルギーやパワーを失い、居心地は良いが面白みのない街と化した現代のニューヨーク(アメリカの大都市はロスもシカゴも同様だけど)で、作家を志しながらも進路に迷う初心な若者が、単純ではない大人の世界を垣間見ることで人生の確かな第一歩を踏み出す。
『卒業』を彷彿とさせるストーリーは使い古された感じだが、ウディ・アレン風の小粋なムードはとてもニューヨーク的。恐らく本場のニューヨーカーには「こんなのごく一部だから!」と文句を言われるだろうけど。そんな部外者のイメージするお洒落なニューヨークを存分に楽しめる作品。懐かしのデビ・メイザーなど、端役に至るまで豪華な役者陣も魅力的だ。
ありきたりな日々に別れを告げる、NY版「早春スケッチブック」
失われたNY。経済至上主義の波に気圧され凡庸に堕したこの街で、青年は現実に押し潰されることなく、如何にして情緒豊かな大人へと成長するか。父の浮気、その愛人との逢瀬、闖入者としての隣人からの助言。文化・芸術の残り香が青年を大人へと導く、粋な神話である。マーク・ウェブ監督はサイモン&ガーファンクルを挿入して現代版『卒業』を示唆するが、日本人としては、ありきたりな日々に別れを告げ、ルーツを見つめ自我に目覚めるという意味において、ニューヨーカー版「山田太一『早春スケッチブック』」的要素も濃厚だと伝え、観客層を拡げたい。
このニューヨークには不思議な魅力がある
この映画のニューヨークは、不思議な魅力を湛えている。質感は柔らかく、冷たさを感じさせない。いい感じの古本屋や喫茶店がある文系の街。監督はこの街を、実際のニューヨークとは別の"人々が抱いているイメージ通りのニューヨーク"を意図して描いたという。だから、実際にニューヨークのさまざまな場所でロケ撮影されていながら、特定の時代に属していないようにも見える。
ある青年が父親の愛人に惹かれていくというストーリーだが、その背後にいくつもの物語が隠されていて、それが次第に明らかになっていく。かなり劇的な出来事もあるが、誰も大声は出さない。そういう物語が、この街の雰囲気によく似合っている。
いまのN.Y.に60sニューシネマのナチュラルメイクを
まず画面の色味に惹かれた。お話は『卒業』や『さよならコロンバス』といった「お坊ちゃん(大卒)系ニューシネマ」を踏襲しつつ巧緻なひねりを加えたもので、音楽や衣裳も含めて雰囲気作りはバッチリ。サイモン&ガーファンクルのレコジャケ的世界とも言え、パスティーシュの工夫がN.Y.の街並みを数cmだけロマンティックに浮遊させる。
内容はエディプス・コンプレックス――「父殺し」を主題とした通過儀礼の変奏。よく伏線が練られたミステリーの裏に、ほろ苦い青春の残響が複雑に折り重なっている。マーク・ウェブ監督としては『(500)日のサマー』の姉妹品。他人の脚本ながら、よりルーツに近いものを撮った気がする。
現代版「卒業」?
大学を卒業したばかりで、将来が見えずにいる主人公。同世代のかわいい恋人候補がいるのに、なぜか入り込んでしまう禁断の恋。そんな現代版「卒業」的物語が、これまたサイモン&ガーファンクルの音楽を使いつつ、ニューヨークのアーティスティックなコミュニティを舞台に展開していく。耳にやさしければビジュアルも小綺麗で、ニューヨークへのあこがれをそそりそうな作り。ただ、ストーリー、とくに最後の展開を、素敵な驚きと思うか信ぴょう性に欠けると思うかは、観る人によるだろう。ピアス・ブロスナンやケイト・ベッキンセールなど豪華キャストも、この小さな家族のドラマには美しすぎるような気がする。