ザ・スクエア 思いやりの聖域 (2017):映画短評
ザ・スクエア 思いやりの聖域 (2017)ライター6人の平均評価: 3.8
やっぱり151分は長すぎる。
確かに性悪さは嫌いじゃないが、ちょっと過大評価されすぎ感あるリューベン・オストルンド監督。現代美術への皮肉たっぷりの本作も、同様の印象が付きまとう。一人の中年男の自業自得ともいえる展開、世代間のギャップ、ハートウォーミングな落としどころに至るまで、前作『フレンチアルプスで起きたこと』と類似するだけに、やっぱり151分の尺は長すぎる。主人公が意図しないところで起こるSNS時代ならではの炎上展開に関しても、それなりに想定内であり、最終的には観客を苛立たせることだけに徹したモンキーマンの登場シーンがかっさらってしまう。主演男優の存在感も含め、監督が意識したであろう『建築家の腹』には遠く及ばず。
この映画そのものが観客の自意識を試して抉るインスタレーション
主人公は現代美術館のキュレーター。地面に正方形を描いてみせ、そこでは誰もが対等という概念を提示した瞬間から、彼自身は身に降りかかる出来事とどう向き合うか。黒い笑いをちりばめたアイロニカルなエピソードが紡がれる。物乞いへの接し方。盗難に遭ったときの処し方。一夜を共にした女性とのその後。代理店に任せた広告動画の炎上騒ぎ…。ごく普通の主人公を苦笑すればするほど、私たち自身の弱さや脆さが露わになる。いわばこの映画の四角いスクリーンそのものがインスタレーションだ。現代美術と庶民との不毛な関係性を痛烈に揶揄し、傍観者でいることを許さず、偽善の仮面を引き剥がし、観る者を当事者の立場へと引きずり出す傑作だ。
生臭い人間の本質を無視した美辞麗句は偽善でしかない
意識高い系のリベラルでインテリなエリート男性の、ふとした軽はずみな行動が雪だるま式に膨れ上がり、やがて彼は窮地に追い詰められていく。いわば、ポリティカル・コレクトネスに支配された現代社会を痛烈に皮肉ったブラック・コメディである。
といっても、ポリコレそのものを否定しているわけではない。他人に優しくしよう、差別をするのはやめよう、弱者を助けよう、それ自体は当然だ。しかし、人間とは善悪で割り切れない矛盾した生き物。その本質を無視して美辞麗句だけを掲げることの愚かしさ、エリート特有の優越感に根差した社会運動の偽善を揶揄する。その上で、我々は世界を良くするため何ができるのか?と問うているのだ。
今の時代にぴったりな風刺劇だけど、長すぎる!?
意識の高いキュレーターが道端でスリ被害にあったことから始まる風刺劇が標的にするのは芸術や上流社会、そして「寛容」と叫ぶ人間が隠し持つ狭量さだ。「なぜ、そんなことするの?」と思わせる主人公の行動は笑いを誘うと同時に、見る側に痛烈な皮肉として跳ね返ってくる。痛たっ! チンパンジーを飼っている不思議な女性ジャーナリストとの関係や類人猿のような男性の行きすぎたパフォーマンス・アートなど決着がつかないサブプロットも多いが(そのせいで長尺?)、映画を見ながら現代社会や人間関係に関してさまざまな思いをめぐらせてしまった。ドミニク・ウエストが演じたジュリアンシュナーベルのコピーみたいな芸術家には笑った!
エリート層や市民社会の風刺劇としてびんびんに尖った一級品
『フレンチアルプスで起きたこと』の俊英監督オストルンドが、またもや巧みなストーリーテリングで「問い」を増幅させ、観客に突き返す傑作を放った。セレブキュレーターが二つの浅はかな提案に乗る。脅迫状によるスリ犯人の特定、炎上商法。それは彼の立場を脅かす災難として跳ね返るが、同時に展示アート「ザ・スクエア」が体現する大きな理想や建前の根っ子からの転覆でもある。
「寛容」や「平和」を謳いつつ、本当の狂気や野蛮さ、異物は反射的に排除してしまう現代社会の欺瞞や虚飾。その「剥がし方」に独特の芸があるのだ。特にネットでバズること、安手のセンセーショナリズムは、芸術や表現から政治の問題へと敷衍できるだろう。
興味深いテーマの数々に触れるが、もっと絞ってもよかった?
教養あるエリートたちの偽善や密かにもつ偏見、貧困問題から、ひいては言論の自由がどこまで許されるのかまで、コメディタッチを保ちつつ、映画は幅広い問題に触れていく。主人公は、現代美術館のキュレーターという、かっこいい職業につく成功者。とは言っても彼にも問題はあり、彼の置かれた状況を通じて、アート界の状況がややシニカルに描かれていくのは、興味深い。ただ、全体的に話があちこちへ飛びすぎ。カンヌで上映されたバージョンから10分カットされているとのことだが、それでもテンポがスローに感じられるのは否めず、もう少し的を絞ってもよかったのではという気もしないではない。