解放区 (2014):映画短評
解放区 (2014)ライター3人の平均評価: 4.7
流されて、西成「クレイジージャーニー」
テレビマン残酷物語を延々見せつけられた挙句、主人公のADが流れ着いたのは大阪・西成。どこかで感情移入していたADがクズっぷりが露わになり、まったく着地点が見えなくなる。焦点がブレブレなうえ、明らかに観客の感情を逆撫でする演出や、それを自身で演じるなど、監督の確信犯的な部分も鼻につく。とはいえ、やはり「クレイジージャーニー」的アブなさにはクギ付けになるし、アンチ「空族」には響きそうな作風でもある。そして、中盤の冗談のような一言を回収してしまう、壮絶なクライマックス。前作『わたしたちに許された特別な時間の終わり』と比べても、しっかり作家性が出ており、見世物としての見応えアリ。
あなたの”目線”を問う力作
映画について語るとき、しばし“リアリティ”に:言及することがあるが、それは本当の“リアリティ”だろうか? 本作を見ながら、そんなことを考えた。
ドキュメント撮影のTVクルーと、そこから離脱して自分の作品を撮ろうとする若者の物語。この若者に西成のどん底で生きる労働者は言う。「人の生活を覗き見ることがリアリティか?」。
TV番組が陥りがちな“上から目線“ではなく、対象に目線を並べる、そこに生じたリアリティ。作り手の真摯な追及が、見る側に問いを投げかける。”どん底“を、あなたはどんな目線で見ているのか? マウンティングがはびこる社会に、本作が存在する意味は大きい。
『岬の兄妹』『タロウのバカ』、少しひねって『解放区』
半ば伝説化していた問題作が5年越しで正式公開。これも忖度に飽き飽きしている日本映画の変容の一端だ。TVコードの嘘臭さに泣きながら中指を立てつつ、大阪・西成の最深部でアレな男二人の出来損ないのバディ物が展開する。
『わたしたちに許された特別な時間の終わり』(表現の魔に囚われたモラトリアムのレクイエム)と併せると、太田信吾の特異点は、地獄にいる対象と一緒に自分も地獄に堕ちようとする極端な真摯さ。今回は再開発前のあいりん地区のディープな街の闇が柔なフィクションを呑み込む硬質のドキュメント性を発揮し、凡人が「一線を越える」ことの戦慄をヤバすぎる臨場感で伝える。そしてSHINGO★西成の名曲へ。必見!